門跡寺院は、皇室、公家と深い関わりを持ち、支援を受けながら、文化継承の役割を担ってきた。戦乱、明治維新による存続の危機を乗り越えて、さらに歴史と独自の文化を将来へ伝えるべく、新たな歩みを始めている。仁和寺はゆかりの深い焼き物など工芸品の振興を支援し、大覚寺は大学を運営し次世代のアーティストを育てる。皇統につながる青蓮院・東伏見慈晃門主、聖徳太子の心を伝える中宮寺・日野西光尊門跡には、門跡寺院が守り伝えてきた伝統と歴史、これからを聞いた。
宗門の祖師から弟子へと継承されていく教え「一門の法跡」をいう。後に一門をとりまとめる僧も指すようになった。
出家して仁和寺に入った宇多法皇を、後世に門跡と称してから、皇族が住職に入り創建した寺院の呼称となり、さらに住職も門跡または門主と呼ぶようになった。
のちに皇族だけでなく貴族出身の公卿門跡ができ、室町時代には、皇族・貴族のかかわる特定寺院の格式を表す語となった。江戸幕府は、出家した皇族が入寺する門跡寺院を宮門跡として他と区別するなど制度化した。
明治維新による神仏分離令の発令に伴い、皇族出身の門跡の多くは寺を離れたが、現在は、寺院の格式として残り、宮門跡の仁和寺、大覚寺など格式の高い「十三門跡」はじめ各地にある。
門跡寺院とは別に、皇族の内親王、貴族の娘などが住職を務める尼寺は「比丘尼御所(尼門跡)」と呼ぶ。
国際日本文化研究センター(京都市西京区)のパトリシア・フィスター名誉教授は「門跡は、寺院のおつとめ以外に文化財を守る学芸員の役割を担った。(皇室から持ち込んだ)行事を続ける思いも強かった」という。皇室、貴族の宝物、生活用具、季節の行事を寺院に持ち込み、御所から宸殿を下賜されるなど、御所文化を伝え、独特の文化を生み出した。
中世日本研究所(京都市上京区)のモニカ・ベーテ所長は「幼い頃に寺院に入り教育を受けながら、侍女が付き添うなど皇室との関係は切れなかった」のも皇室と寺院の間に文化交流を促したとみる。
平安時代初期
嵯峨天皇が大覚寺の前身・離宮嵯峨院を建立876年(貞観18年)
淳和天皇の皇后・正子内親王が、第2皇子・恒寂入道親王を住職に大覚寺創建888年(仁和4年)
宇多天皇が仁和寺創建904年(延喜4年)
宇多法皇が仁和寺の第1世門跡に平安時代末期
摂政などを務めた藤原師実の子・行玄が青蓮院創建、第1世門主に1468年(応仁2年)~
応仁の乱で仁和寺、大覚寺、焼失1532~55年(天文年間)
中宮寺に後伏見天皇の皇孫・尊智女王が入寺、後に尼門跡寺院に1624~44年(寛永年間)
大覚寺再建1646年(正保3年)
仁和寺の伽藍再建が完了1868年(明治元年)
明治維新、神仏分離令発令1994年
仁和寺が古都京都の文化財として国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録
(2023年9月3日付 読売新聞朝刊より)
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