ロンドンの大英博物館で大がかりな葛飾北斎展が最後に開かれたのは2017年だから、そう昔のことではない。「Hokusai: Beyond the Great Wave」と題されたその展覧会 〔訳者注:北斎の版画集「富嶽三十六景」の中の「神奈川沖浪裏」以後の、晩年の作品を中心に紹介〕 は、北斎の来歴と、版画、掛け軸、絵手本、読本と広範にわたった絵画作品を探究するものだった。
同じ博物館で今開かれている展覧会は「再発見」されたばかりの、北斎の重要な作品集にスポットを当てている。図鑑本「万物絵本大全図」の出版に向け、北斎が1820年代から1840年代にかけて描いた肉筆下絵103点だ。北斎の野心をうかがわせるような、素晴らしいタイトルを与えられたこの図鑑本は未完に終わった。出版にこぎ着けていたら、下絵は破棄されたはずで、私たちの目を楽しませることもなかっただろう。その下絵が実に面白い。作柄もあるが、そこに描かれている物語にそそられるし、研究熱も高まっている
北斎の優れた筆力は一目瞭然だ。どの絵も、はがき大というのか、同じ大きさで、一つ一つの作品に勢いと力強さがあり、描写は精緻を極めている。テーマは多岐にわたり、古代の中国とインド、自然界にも及ぶ。作品のすべてに、その場面を説明する画賛が漢字を用いて記されている。
周生という名の道士を描いた詩趣ある作品では、この道士が雲のはしごを登り、月輪をつかみ取ろうとしている。
題材は、中国の神話であったり、異国の人々であったりする。冒険談もある。仏陀の国であるインドも重要なテーマとして取り上げられている。目を引く作品の一つに、釈迦牟尼の殺害を企てた流離王〔訳者注:釈迦族を壊滅させたとされるコーサラ国の毘瑠璃王〕が雷に打たれて死ぬ場面を描いたものがある(トップ画像)。雷の衝撃で流離王は足を払われ、衣服が体にまとわりついている。小さな枠に収まってはいるが、迫力がすさまじく、現代マンガの前触れと言えるような絵柄だ。
竜頭観音は、絵柄が最も美しい作品の一つと言えるだろう。北斎は観音をきっちりとした線で、竜は筆の跡が残るように描き、二つの運筆法を使い分けている。
北斎が描いた架空のけだものからは、その発想の奔放さが見て取れる。時折、威張ってみせる彼の性分も、そこに表れているのかもしれない。中国の想像上の生き物である「貘」と「麒麟」 は並べて描かれ、余白には、麒麟を竜に似せて描くのは間違いである、といった所見が書き留められている。
北斎はその精密な筆遣いで、鳥や猫や象など〔訳注:実在する〕さまざまな動物の生き生きとした姿も描いている(風俗画も何点かある)。滝の下で立ち上がり、魚が飛び出してくるのを待つ熊を描いた、ほほえましい作品もあるが、よく見ると、水しぶきが爪のような文様で描かれていて、有名な「神奈川沖浪裏」をほうふつさせる。
北斎が刊行するつもりだった「万物絵本大全図」のような図鑑本は江戸時代に人気があり、子どもたちの教本として使われた。北斎の図鑑本がなぜ刊行されなかったかは不明だが、その版下絵が〔訳者注:版木を作る〕彫り師によって破損されずに済んだことは、後世の私たちにとっては、もっけの幸いだ。私たちが今日拝むことができる北斎の作品は、そのほとんどが刊行された錦絵で、下絵は希少だからだ。
北斎の版下絵のセットは、絹の包みにまかれた小さい木箱に収められていて、損なわれずに済んだのだが、やがてフランスに渡り、宝石商アンリ・ヴェヴェール(1854~1942年)のコレクションの一部となった。ただ、当時は作者不詳とされていて、2019年にパリで行われたオークションでこのセットが売りに出された時には、北斎ではない、別の絵師の作品とみなされていた。しかし、そこには、浮世絵を専門とする画家のイスラエル・ゴールドマン氏がいた。氏は胸の高鳴りを覚え、重要作品であると確信すると、木箱のセットをいったん入手してから、大英博物館に売却したのである。同館による鑑定で、北斎作品と判明した。
大英博物館で開かれている展覧会は、同館がこのほど入手した 「万物絵本大全図」 を分かりやすい形で紹介している。版下絵の全103点を三つのカテゴリー(古代インド、古代中国、自然界)に分類し、展示しているのだ(絵は順不同で保管されていたため、それぞれの主題を明らかにし、相互にどう関連しているかを解明する調査が徹底的に行われた)。会場には、江戸時代の版画や書物の制作がどのようにして行われたのかを学べるコーナーも設けられている
ゴールドマン氏は展覧会の開催を大いに喜んでいて、こちらの取材に対して、「素晴らしい展示だ。私が会場を訪れると、いつも大勢の来場者がいて、北斎の(版下)絵を楽しそうに鑑賞している。この作品を最初に見つけた時は、大英博物館の版画やスケッチの展示コーナーで、全スペースを使って上品に展示される日が来ようとは、思ってもみなかった」と話してくれた。
プロフィール
美術史家
ソフィー・リチャード
仏プロヴァンス生まれ。エコール・ド・ルーヴル、パリ大学ソルボンヌ校で教育を受け、ニューヨークの美術界を経て、現在住むロンドンに移った。この15年間は度々訪日している。日本の美術と文化に熱心なあまり、日本各地の美術館を探索するようになり、これまでに訪れた美術館は全国で200か所近くを数える。日本の美術館について執筆した記事は、英国、米国、日本で読まれた。2014年に最初の著書が出版され、その後、邦訳「フランス人がときめいた日本の美術館」(集英社インターナショナル)も出版された。この本をもとにした同名のテレビ番組はBS11、TOKYOMX で放送。新著 The Art Lover’s Guide to Japanese Museums(増補新版・美術愛好家のための日本の美術館ガイド)は2019年7月刊行。2015年には、日本文化を広く伝えた功績をたたえられ、文化庁長官表彰を受けた。(写真©Frederic Aranda)
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