2021.12.27

【大人の教養・日本美術の時間】わたしの偏愛美術手帳 vol. 20-上  奥田敦子さん(すみだ北斎美術館学芸員)

葛飾北斎「南瓜花群虫図」

葛飾北斎「南瓜花群虫図」
天保14年(1843年)
1幅 絹本着色 縦 37.7 cm 横 68.5 cm
(すみだ北斎美術館)

「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!

今回お話をうかがったのは、すみだ北斎美術館(東京都墨田区)の奥田敦子・主任学芸員です。紹介してくださるのは、葛飾北斎の「南瓜花群虫図かぼちゃばなぐんちゅうず」(すみだ北斎美術館)。一見親しみやすい絵の中に、北斎の驚くべき描写力と見事な構成力が光ります。

肉筆画の魅力

―「南瓜花群虫図」は版画ではなく、北斎が筆で描いた絵ですね。

ええ。浮世絵師は主に浮世絵版画の下絵を描く仕事ですが、こうした肉筆浮世絵(筆で描いた浮世絵)も手がけました。北斎の肉筆画には、狩野派(近世の画壇の主流)を凌駕りょうがするほどの力量を感じます。

北斎は、形を忠実に写すだけでなく、虫が飛んでいる一瞬など、前後の時間の流れや空間まで表しました。虫の微細な羽ばたきは、薄く墨のぼかしで表現した上に、さらに濃い線を入れているのでしょう。枝をう芋虫のぐにょっとした質感も見事です。かぼちゃの葉脈を複雑に描いていたり、陰影をばっちり利かせていたりと、細かく見ていくと本当に面白いですね。トンボのうち、1匹だけは尻尾をくるっと丸めていますね。これにより絵全体が図案のようにならず、動きが生まれています。

画面の端で、虫の体の一部が切れていますね。画面の中におさめると縮こまった印象になってしまいますが、こうしてトリミングすると、空間が無限に広がっているように感じさせます。白い背景も行き止まりのようではなく、奥に空間が広がっているような印象です。私は美術史を志した学生の頃から「絵の中に入ってみたい」という気持ちが強いのですが、この没入できるような感じも北斎の絵の魅力です。また、かぼちゃの花は横から見た形になっていますが、右下の虫は上から見下ろす視点で描かれています。北斎は、いろいろな視点を混在させながら、違和感のない構図にまとめあげているのです。

すみだ北斎美術館の外観(同館提供)
あらゆるものを描きたい

このように花や虫を描いた絵は「草虫図そうちゅうず」といい、中国大陸から伝わった伝統的な花鳥画の1ジャンルです。江戸時代は博物学が流行していたこともあり、こうした絵が好まれました。草虫図を写生的に描いた浮世絵師には、ほかに喜多川歌麿がいますが、肉筆画が残っているのは北斎のみです。ただ北斎の場合には、博物学への関心というより、「あらゆるものを描いてやろう」という精神で描いたように思います。「まだ猫1匹ろくに描けない」と悔し涙をこぼしたという逸話がありますが、そのように無邪気で純粋なところがこの絵にも表れているのかもしれません。

―どのような人がこうした絵を買い求めたのでしょうか?

当時の随筆には「読本よみほん(長編小説)の挿絵を描かせたら、北斎の右に出る者はいない」といった内容が書かれており、北斎の実力は広く認められていたと思います。この絵は、絹の布に色彩豊かに描かれ、掛け軸に仕立てられていますから、発注を受けて描かれたのでしょう。注文主は、裕福な商人層という可能性もあります。

江戸時代、身分制度のもと、狩野派などの肉筆画を専門とする「本絵ほんえ」の絵師と、浮世絵版画の下絵を描く「版下絵師」は区別されていました。お殿様に仕えて古典的な絵を贈答用やお城に飾るために描く本絵師とは違い、浮世絵師は、売れるかどうかが軸にある商売で、その時々の情報を発信するマス・メディアにも似た存在だったのです。

浮世絵師のなかには、大名に仕官して御用絵師になった人もいますが、北斎は生涯、浮世絵師でした。とはいえ、残された作品を見ると、もはや版下絵がメインとはいえず、浮世絵師の範疇はんちゅうを超えています。浮世絵師には、懐月堂派かいげつどうはや宮川派など、肉筆画専門の流派もありましたが、彼らは美人画がメインでした。一方、北斎は、狩野派の絵師が描くような、中国の伝説や竜といったテーマまで、肉筆画に描いたのです。とりわけ、竜の絵は人気で、多くの注文に応えました。そうした浮世絵師はほかにいません。

狩野派の御用絵師の作品であれば、注文主や所蔵者が記録に残っていることがありますが、町にいる浮世絵師の作品の大半にはそうした記録がなく、所蔵者が移り変わっていることも多いため、簡単にはわかりません。とはいえ、大名家のお墓から「北斎漫画」が見つかった例もあり、北斎は武士からも人気だったのでしょう。

すみだ北斎美術館の常設展示室「AURORA」のタッチパネル(同館提供)
唯一無二の表現力

―北斎は、才能にあふれて多作な一方、放蕩ほうとうする孫に手を焼いてお金に困ったり、掃除が苦手だったりと、人間臭いエピソードも多いのですが、一番の魅力は何ですか?

生涯90年と、ほかの浮世絵師よりも20年ほどは長く生き、その間に多彩な制作活動をしたことです。例えば、「東海道五十三次」で知られる歌川広重ならずっと歌川派と、同じ流派で通すのが一般的です。ところが、北斎は、勝川派から江戸琳派、その後、独立して自分の工房を作るという紆余うよ曲折を経ています。その生き様に心強さを感じますね。というのも、比べるのはおこがましいですが、私も文化財修復を目指したのちに出版社勤務を経て学芸員になったので、いろいろな経験が無駄ではないなと思うのです。

北斎は西洋や中国の絵にも学び、自己流の描き方を作っていきました。こうした肉筆画の複雑な質感にも、そうした試行錯誤の成果が表れていると思います。北斎の作品には、複雑な、一言では言えない蓄積を感じるのです。

まじめで自由

北斎は75歳の時、「富嶽ふがく百景」という本の末尾に「これまで描いてきたものはイマイチだな。これからも描き続けて、百数十歳になれば、一点一画が生きているような絵が描けるだろう」といったことを書いています。当時は、今より平均寿命が短く、広重は60代で亡くなっていますが、北斎は75歳になってもあぐらをかくことなく、「まだまだ」と真摯しんしなのです。しかも、「一点一画が生きているような絵が描けるだろう」という、ある意味、不遜さがあり、その二つが同居していることも魅力だと思います。

そうした、のびのびとした自由な人柄だったからこそ、200人にのぼる、多様な画風の弟子や孫弟子を抱えることができたのでしょう。「人に押し付けないし、人から押し付けられたくもない」という感じが、かっこいいなと思います。

晩年には、長崎に行く若い弟子に、「キダコ(ウツボ)などを写生してきてほしい。自分も描き写したいから」と頼んだという逸話があります。飽くなき好奇心と、若い人にも素直にお願いできる偉ぶらない人柄がうかがえますよね。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(実物大高精細レプリカ)の展示
世紀の名作

生涯、歌川派にいた広重は、遅咲きながら安定的な仕事ぶりで、版元(今でいう出版社)としても、「こんな依頼をすれば、こう返してくれるだろう」という安心感があったと思います。それにひきかえ、北斎の場合は、住所不定で、画風もさまざまに変わったので、そんな絵師に仕事を依頼した版元の気概もすごいなと思いますね。

なかでも、西村屋与八にしむらやよはちという版元が、「冨嶽ふがく三十六景」の連作を依頼したのは、英断だったと思います。さまざまな場所から見える富士山を描くという大胆なテーマで、浮世絵版画の定番サイズの中では最大の「大判」に表した、36図(最終的に46図)に及ぶ初の名所絵の大シリーズであり、しかも、当時新しくヨーロッパからもたらされた「ベロリン藍」(プルシャンブルー)をメインカラーとして使おうという、お金のかかる企画ですから。踏み切るのはたいへんな決意だったでしょう。

この企画は、版元が北斎に持ち込んだものなのか、両者で互いに練り上げたものなのかはわかりませんが、少なくとも、北斎は前々から「富士山をいろいろな角度で切り取ろう」と考え、描きためていました。もちろん売れる見込みがないと作れませんから、富士山に参拝する富士講のブームも後押ししたのでしょう。このシリーズは、すでに70代を迎えていた北斎の新境地になりました。

―当時でいえば、そろそろ寿命かなという年に、これほど大胆なシリーズを手がけて、しかも、続けざまに「諸国瀧廻しょこくたきめぐり」や「諸国名橋奇覧しょこくめいきょうきらん」なども出版していますね。

恐ろしく精力的ですよね。アイデアがどんどんわいて、体も頑健で、精神力もすごく強かったのだろうと思います。

また、「何を表現したいのか」がここまで明確な浮世絵師は、ほかにいないと思います。普通の浮世絵師なら「自分は役者絵が評判だから、役者絵を描き続けよう」とか、「役者絵の流派に属しているから、役者絵を描こう」と考えるところを、北斎の場合は、「富士山をいろいろな角度で切り取ろう」という明確なコンセプトがあったのです。まるで、近代以降のアーティストのようですよね。こうした点も、世界的に人気がある理由だと思います。ゴッホなどの画家を知っている人たちにとって、北斎はすごく理解しやすいわけです。

◇ ◇ ◇

奥田敦子・すみだ北斎美術館主任学芸員(鮫島圭代筆)

奥田さんのお話から、北斎の紆余曲折の生き方に勇気づけられた方もいらっしゃるのでは? また、「コンセプトを持って描いた浮世絵師」という切り口から、北斎の魅力がさらに高まったのではないでしょうか。次回は、物心ついた頃から、日本の古いものが大好きだったという奥田さんが学芸員になるまでのお話、そして、すみだ北斎美術館の設計プランに関わったご苦労や思い、多様な同館企画展の魅力をうかがいました。

わたしの偏愛美術手帳vol. 20-下に続く

【奥田敦子(おくだ・あつこ)】東京学芸大学教育学部情報環境科学課程(文化財科学専攻)卒、同大学院教育学研究科(美術教育専攻美術教育講座造形芸術分野)修了。美術専門の出版社勤務、太田記念美術館主任学芸員を経て、すみだ北斎美術館の開設に準備段階から関わる。現在、すみだ北斎美術館主任学芸員として、開館記念展ほか多数の展覧会を企画開催。国際浮世絵学会理事。著書に「広重の団扇絵 知られざる浮世絵」(芸艸堂)、「THE 北斎 冨嶽三十六景 ARTBOX」(講談社)のほか、葛飾北斎・妖怪・花火などに関する論文・解説多数。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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