地域で保護される文化財の中には、美術的、歴史的価値の高いものが少なくない。地域住民が守り継いできた観音像が数多く点在する滋賀県長浜市高月町は「観音の里」として、全国から注目されている。ただ、こうした地域にも人口減少、高齢化の波が押し寄せており、将来、住民の努力だけでは文化財の維持継承が困難になるとの指摘がある。
滋賀県琵琶湖の北岸・湖北地方は古代から仏教文化が花開き、多くの寺院が建立された。戦国時代には姉川の戦い、小谷城の戦い、賤ヶ岳の戦いなど、織田信長、豊臣秀吉らによる戦乱が繰り返され、寺院も焼き打ちに遭った。ところが、住民たちによって奇跡的に救い出された観音像が今も残っている。
長浜市高月町の渡岸寺観音堂に伝わるのは、平安時代初期の制作とされる国宝、十一面観音立像だ。像高約194センチ、一木造り。日本仏教彫刻史上の最高傑作だ。
伝承では奈良時代、聖武天皇の勅願により、僧・泰澄が疫病や災害を鎮めるために十一面観音像を刻んだとされる。天台宗光眼寺として栄えたが、姉川の戦いによりお堂はことごとく焼失。観音像は住民たちが運び出し、土中に埋蔵して難を免れたとされる。境内にある石碑は、像を埋めたとされる場所を今に伝える。
1897年に特別国宝に指定され、渡岸寺地区にある浄土真宗向源寺の所蔵とされた。戦後の文化財保護法のもとで、1953年に国宝に指定。同年に発足した旧高月町の住民組織「高月町国宝維持保存協賛会」が主体的に観音像を維持・管理している。
旧高月町域から正副会長、事務局を務める主事、約20人の理事が選ばれ、観音堂の運営にあたる。祖父も父も主事を務めたという現主事の山岡和士さん(72)は「戦後の国宝指定当初、観音堂は静かなものだった。70年代半ばまでは毎月17日の法要の費用を工面するため、旧高月町域の各集落から毎年新米を一升ずつ寄付してもらっていた」と振り返る。
拝観料で観音堂の運営がまかなえるようになったのは70年代後半。作家の井上靖や白洲正子が十一面観音を紹介し、地域が全国から注目されるようになって以降という。
観音堂脇に立つ現在の文化財収蔵庫は2代目。2005年に完成した。国宝の十一面観音立像とともに重要文化財の大日如来坐像などを安置する。「協賛会は年中無休で参拝者をお迎えしている。役員を務めることが大変と感じるときもあるが、これからも力を合わせ、観音さんを守り続けていきたい」と山岡さんは力を込めた。
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長浜市「高月観音の里歴史民俗資料館」学芸員
佐々木悦也さん(64)の話
お寺は中世以来の戦乱で焼き打ちに遭ったり、明治初年の神仏分離令で壊されたりと、文化財の危機は数え切れないほどあった。そんな中、仏像や工芸品、古建築などが今日まで伝わったのは、聖なるもの、大事なものを守り伝えようとする民衆の努力なしにはあり得なかったと思う。
長浜市南郷町では1980年代後半、観音堂が老朽化し、地元住民が存続について協議した。同じ頃、自治会の集会所「南郷会館」の建設話が持ち上がり、話し合いの結果、観音堂は取り壊し、堂内の観音像は同会館に迎えることに決めた。厨子は傷みが少なかったため会館の床の間に移し、観音像を安置した。
すると、観音堂に安置されていたときより、集落の会合などで観音像に合掌する機会が増えた。素晴らしい取り組みだったと思っている。
地域に長い間伝わってきたものは、貴重な文化財であり地域の誇りだ。住民が自ら撮影したり図面に残したりすることは関心を持つ一歩となる。文化財保護に熱心な各地の住民同士が、互いの課題を情報交換し、知見を共有するような場を設けられれば、さらに広域的に関心を深めることができると期待している。
(2025年3月2日 読売新聞朝刊より)
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