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「源氏物語関屋澪標図屏風」 俵屋宗達筆 1631年(江戸時代、寛永8年)
右隻:関屋せきや部分 左隻:澪標みおつくし部分

2023.5.10

【文化財守る企業の志】静嘉堂(三菱) 

我が国伝統の美術品、工芸品などの文化財は明治以降、海外流出、災害、戦火などの危機を迎えながら、官民あげての努力によって守り伝えられてきた。三井は三井文庫、三菱は静嘉堂、住友は泉屋博古館せんおくはくこかんを公益財団法人として設立し、所蔵の美術品を後世に残した。創業家の所蔵品を江戸時代から受け継ぐ三井記念美術館の清水眞澄館長、海外に学んだ岩崎家コレクションを持つ静嘉堂文庫美術館の河野元昭館長に、企業の果たすべき役割と、さらに次の世代へ守り伝える意義を聞いた。

 
 

財閥 文化行政の一翼担う

美術品買い受け、散逸防ぐ/海外博覧会に出品
 

明治維新を機に、幕藩体制の崩壊、新政府の神仏分離令、欧化政策などによって、日本、東洋の伝統的な美術品、工芸品などは海外流出の危機を迎える。政府は、1872年(明治5年)に社寺や華族(旧大名家)所蔵品の本格的な調査(壬申検査)を実施。博覧会を開催し散逸の阻止に努め、東京国立博物館を開設する。人材の育成へ、帝室技芸員(後の重要無形文化財保持者=人間国宝)制度を発足させ、東京美術学校(東京芸術大学の前身)を開校、古社寺保存法の施行と、文化財の保護と継承に乗り出す。

ただ、国防、インフラの整備や産業奨励などを優先した当時は「欧米にならって美術品を保存、継承、公開していく制度は整えたが、その先の(制度を運用する)ソフトパワーまでは手が回らなかった」と静岡文化芸術大学の田中裕二准教授は、文化行政の限界を指摘する。

行政を補う一翼を担ったのが、三井、三菱、住友などの財閥だった。社寺、華族などが江戸時代から受け継いだ美術品、工芸品などを買い受け、散逸を防ぐ。海外の実情を見た三菱創業家の岩崎彌之助やのすけ小彌太こやたは、困窮していた作家を支援し「海外の万国博覧会に所蔵品を出品し、世界に日本の文化を広める活動までしていた」(安藤一郎・静嘉堂常務理事)。

1902年(明治35年)には、実業家の大倉喜八郎が現存する国内最古の私立美術館、大倉集古館(東京都港区)を開館する。後に、三井、三菱、住友も美術館を新設し、国内の美術鑑賞の啓発に貢献する。国の産業奨励策で経営と利益の拡大を図る一方で、美術を通して社会へ還元したいという意思が共通する。第2次世界大戦後、財閥解体の苦難を経ても姿勢は変わらなかった。

静嘉堂(三菱)

静嘉堂文庫
 
河野元昭・静嘉堂文庫美術館館長に聞く

「オフィス街の美術館」 夢実現

 

2022年10月に静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区)の展示ギャラリー・静嘉堂@丸の内(千代田区)をオープンして以来、現在開催中の展覧会を含め、9万人以上の人々に来館いただいた。大成功だと思っている。私は「質量主義」と呼んでいるが、美術館は質のよい作品を並べて、たくさんのお客様に見ていただく、その両輪を大切にすべきだと考えている。質という点で当美術館は国宝「曜変天目」を中心に数々の作品を所蔵し、見ていただくには、皇居に近い日本の中心・丸の内という地の利がある。

河野元昭・静嘉堂文庫美術館館長

彌之助の古美術品収集は刀剣から始まった。絵画、彫刻、書籍と手を広げたが、当初は美術商から十把一絡げに買い取り、玉石混淆こんこうだったようだ。やがて目も肥え、優れた作品が集まるようになった。

禅機ぜんき図断簡 智常禅師ちじょうぜんじ図」 因陀羅いんだら筆 楚石梵キそせきぼんき題詩 14世紀(元時代)

「脱亜入欧」が国是の時代にあって、彌之助には国の宝の海外流出を防がねばならないという日本人としての大志と矜持きょうじがあった。思いを継いだ小彌太がコレクションを充実させ、父親の遺産である静嘉堂文庫の経営と作品の保存、公開へ積極的に乗り出した。

「太刀 銘 包永」 手掻包永てがいかねなが作 13世紀(鎌倉時代)

文化財の保護をはじめとする日本の文化行政は、彌之助の時代から官と民が協力してうまくやってきたと思っている。明治時代には古社寺保存法を制定して文化財を保護したり、東京美術学校を設立して美術家を養成したりしている。少なくとも美術に関して「官尊民卑」ということはなかった。諸外国を見渡してもうまく協力し合っているところは少ない。

曜変天目ようへんてんもく(稲葉天目)」 建窯 12~13世紀(南宋時代)

もちろん文化財保護の予算は多い方がよく、現在の文化行政をパーフェクトと言っているのではない。バージョンアップの必要はある。

彌之助は静嘉堂を創設した当時から、丸の内を開発して近代的なビジネス街に美術館をつくりたいという思いを抱いていた。建築家のジョサイア・コンドルに図面を引かせていた。残念ながらこの構想は実現しなかった。丸の内で静嘉堂所蔵の名品を展示するのは、彌之助の夢だった“オフィス街の美術館”の実現だ。彌之助は喜んでいるのではないか。

倭漢朗詠抄わかんろうえいしょう 太田切おおたぎれ」 11世紀(平安時代)
(右)静嘉堂文庫を創設した岩崎彌之助(左)岩崎小彌太

◎作品はすべて国宝 所蔵・写真提供=静嘉堂文庫美術館

■静嘉堂とは

和漢の書籍、書画など美術工芸品の保存、調査研究、一般公開を目的とする公益財団法人。

三菱第2代社長の岩崎彌之助(1851~1908年)と4代社長の岩崎小彌太(1879~1945年)父子が、1892年、東京・駿河台の彌之助邸に静嘉堂文庫を創設した。

1940年、小彌太が財団法人静嘉堂(東京都世田谷区)を設立。46年には、遺族が美術品コレクションを寄贈した。

77年から併設の展示館で一般公開を開始、92年に静嘉堂文庫美術館を新設。2022年、明治生命館(千代田区、重要文化財)に展示ギャラリー・静嘉堂@丸の内をオープンした。国宝7件、重要文化財84件を含む約6500件の東洋古美術品と約20万冊の古典籍を所蔵する。

特別展「明治美術狂想曲」

静嘉堂@丸の内で6月4日まで開催。国宝「曜変天目(稲葉天目)」を展示する。 

(2023年5月6日付 読売新聞朝刊より)

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