「本州最南端の駅」の看板が掲げられたJR串本駅(和歌山県串本町)までは、新大阪駅から特急列車で約4時間。改札を出た途端、潮のにおいに包まれた。想像以上に海が、そして太陽が近い。
紀伊半島の南端に位置し、黒潮が接岸する串本町は、年間の平均気温が17度前後、東京の八丈島とほぼ同緯度にある。この温暖な町に、天明6年(1786年)、絵師の長沢芦雪は、師である円山応挙の名代として訪れた。
当時、33歳。京の絵師として名高い応挙門下で頭角をあらわしていた芦雪は、南紀でのわずか半年ほどの滞在中に、寺院の障壁画から民家の屏風にいたるまで、膨大な量の作品を描き残した。国指定の作品だけでも、実に100点を超える。その土地で生まれ育ったわけでもない、一人の画家の作品が、特定の地域にこれほど多く残る例は「他に類を見ない」と専門家は口をそろえる。南紀に残る芦雪の足跡を追った。
まずは、応挙、芦雪が手がけた重要文化財「方丈障壁画」を有し、「芦雪寺」の愛称でも知られる無量寺から。南紀で描かれた芦雪の作品の多くは、保存のため県立博物館(和歌山市)に寄託されているが、無量寺では本堂を飾った襖絵55面を収蔵庫に保管し公開。美術館「串本応挙芦雪館」も併設し、芦雪だけでなく、狩野探幽や伊藤若冲らの作品も所蔵する。現在は不在の住職に代わり、檀家の総代長をつとめる前芝雅嗣さんが迎えてくれた。
無量寺は串本町串本地区にある唯一のお寺で、今も800ほどの檀家を抱える。「地元のみんなの菩提寺、心のよりどころですわ」と前芝さん。宝永4年(1707年)の宝永地震による大津波で、無量寺をはじめ串本一帯は大きな被害を受けた。寺院復興のため、本山の京都・東福寺から愚海和尚が派遣されたのが、応挙・芦雪との関係の始まりだ。
「和尚が応挙と親しく、寺が再建されたら襖絵を描いてほしいと頼んだそうです」と前芝さんが寺伝を教えてくれた。苦難の末、1786年に寺は再建され、約束通り、応挙は襖絵を手がけることに。しかし多忙だったため、弟子の芦雪に作品を預けて南紀へ派遣した。
芦雪が訪れたのは、同年秋頃とされる。本堂は6室からなり、最も格式が高い「上間一之間」に応挙の作品が、残りの部屋に芦雪の作品が残る。壁、襖、床の間、違い棚と室内のほぼ全面に絵が描かれている。
すべての作品は1961年以降、美術館や収蔵庫に収蔵され、現在はデジタル複製画がはめられている。もっとも有名なのは、仏壇を前にして、にらみ合うかのように左右の襖に描かれた重要文化財「虎図襖」と「龍図襖」だろう。
実際に仏壇の前に座って眺めると、思っていた以上に巨大であり、豪快な筆跡に驚かされる。特に虎は、今にも飛びかかってきそうな迫力だ。それでいて、表情はどこかユーモラスで、かわいい。「ちっちゃい頃から、お寺にある虎大きいなぁ、すごいなぁと思ってました。芦雪なんて名前は知らなくてね。それで、昔は、子どもらが絵の前で普通に遊んでましたよ。今から考えるととんでもないね」と前芝さんは苦笑する。
虎図のちょうど裏側にあたる、上間二之間の襖には重要文化財「薔薇図」が描かれる。左脚を前につきだし、水辺から池の魚を狙う猫の様子に、「この魚から見た猫が、裏に描かれていると、つまり僕らから見た虎やね。そう言う人もいます」と前芝さんが教えてくれた。
芦雪といえば、愛らしい子犬の絵を思い浮かべるひとも多いだろう。重要文化財「唐子遊図」には、手習いをする子どもたちの横で戯れる子犬らが描かれている。いたずらな表情をする子どもと子犬、かわいらしさも2倍で、思わず頬が緩んでしまう。
本物の絵が収められた収蔵庫は、倉庫のイメージとはほど遠い、展覧会場のような作りで、雨の日以外は観覧できる。海沿いで湿度の高い気候。建物は高床式で、檀家の人たちが毎日交代で湿度をチェックするなど手入れを欠かさないが、建物の老朽化が進んでいる。
「県や文化庁とも対策を相談し始めています。せっかく江戸時代からここまで来てくれたんやから、僕らがおる間に変になったら悲しい、つらい。東京から、海外から、びっくりするほど大勢の方が見に来られるんです。ふるさとの宝を守るのは、僕らの代の責任です」と前芝さんは話していた。
無量寺を出て、海沿いを走る国道42号線を東へ。途中、国の名勝や天然記念物に指定されている「橋杭岩」が見えた。串本から離島までの約850メートルにわたり、40あまりの岩柱が海中からそそり立つ。
串本町観光協会によると、海の浸食により岩の硬い部分だけが残り、あたかも橋の杭が立っているように見えることから、この名がついたのだという。サンゴ礁の広がる青く雄大な海に、自然が造り出したダイナミックな地形。串本の豊かな自然が、芦雪のおおらかな筆致にどこか重なる。
「和歌山は紀州徳川家、つまり御三家の一つが治めており、田辺、新宮にもお城が造られ、各地で文化が発達しました。特に南紀は、農業、捕鯨などの漁業、そして海運も盛んで、経済的に豊かな地でした」と語るのは、県立博物館の竹中康彦学芸課長だ。
「京から有名な絵師をわざわざ呼んで、絵を描いてもらう。それは、当地の人にとっては特別なことだったと思います。同時に芦雪にとっても、師匠の応挙から離れ、自由にのびのびと表現をすることができた。紀南での経験は、芦雪のその後の画風の発展に大きく影響しています」
やがて、次の目的地である成就寺へ到着した。山と海に挟まれた穏やかな古座地区にあるこの寺で、芦雪はすべての部屋の障壁画を任された。その数は、実に48面。うち47面は博物館に寄託されており、最後に残された1面が、修理のため寺から運び出されようとしていた。
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(読売新聞紡ぐプロジェクト事務局 沢野未来)
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