刀剣にまつわる様々な物語を歴史小説家の永井紗耶子さんがひもとく「おちこち刀剣余話」の第6回は、前回ご紹介した「鬼切丸」、別名「髭切」の兄弟刀で、源氏の重宝として代々受け継がれ、源義経の愛刀でもあった「膝丸」のお話です。この膝丸、現在は3振伝わるらしいのですが……?
「武士には強い刀が必要だ」
その信念のもと、名工に刀を作らせた平安時代の武将であり、源氏の祖でもある源満仲。その1振が前回に紹介した「髭切」でした。そして今回ご紹介するのは、もう1振の「膝丸」です。
この刀も「髭切」と同様、「平家物語」の付属である「剣の巻」にその由来を見ることができます。また「保元物語」や「源平盛衰記」にも登場しているのですが、細かい経緯などについては違いがあります。ここでは主に「剣の巻」で書かれているエピソードを中心にご紹介したいと思います。
満仲の独特なネーミングセンスによって、「罪人の首を斬ってみたら、膝頭まで斬れた」ことから「膝丸」と名付けられたこの刀ですが、その後、名前を変えながら、英雄たちと共に数奇な運命をたどっていくことになります。
さて、この「膝丸」は現在、どこにあるのか……。
実は「膝丸」ではないかと伝わる刀が、現在、国内に3振あるのです。神奈川県の箱根神社(「太刀 薄緑丸」)、京都の大覚寺(重要文化財「太刀 薄緑(膝丸)」)、そして個人がそれぞれ所蔵しています。
どれも名工の手によるもので、作られた時代も近く、本物であり得る逸品なのですが、果たしていずれが本物なのか……? 「その謎を追いたい」と、小説家の心をときめかせてくれるミステリアスな刀です。実際、その魅力故にこそ、これまでにも様々な物語に描かれています。
今回は、その膝丸にまつわる物語をたどってみましょう。
この「膝丸」は、先の「髭切」同様、満仲の息子・源頼光の愛刀となっていました。
そして、頼光によって、名を「蜘蛛切」と改めることになります。その改名のエピソードが現在も演じられる能「土蜘蛛」に描かれているので、そちらをご紹介したいと思います。
酒呑童子を倒し、一条帝からの覚えもめでたい源頼光。その頼光がある時、病の床についてしまいます。薬を飲んでも一向に良くなる気配がなく、日に日に弱ってしまいます。
「あとは最期を待つばかり……」と、弱気になっている頼光の元に、謎の法師が現れます。何者かと訝しむ頼光に、なんとその法師が
「お前が病に苦しんでいるのは、私の仕業なのだ」
とのたまうと、無数の蜘蛛の糸を放って頼光を捕らえようとします。この法師こそ、妖怪の土蜘蛛の化身でした。
弱っていた頼光ですが、襲い掛かる土蜘蛛を退治するべく枕元にある膝丸の刀を抜き、法師に化けた土蜘蛛に斬りつけます。逃げようとする土蜘蛛を何度も斬りつけ、捕らえたかと思われましたが、気づけば蜘蛛の姿は消えていました。
騒ぎを聞いて駆けつけた頼光の家臣である独武者(武士の一人)に、頼光は事の次第を話して聞かせます。
「こうして助かったのも、この剣の威力のおかげだと思う。今日からこの名を『膝丸』から『蜘蛛切』に改めることとしよう」
こうして、名刀「膝丸」は、「蜘蛛切」へと名前を変えることになりました。
物語はその後も続きます。
頼光の家臣である独武者は、斬りつけられて傷を負った土蜘蛛が落とした血痕をたどり、土蜘蛛の潜む塚を見つけます。退治するべく塚を切り崩すと、中から土蜘蛛が現れます。
土蜘蛛は、
「我こそは、大昔から葛城山に潜んでいた土蜘蛛の精だ。再び御代を騒がせるのに、手始めに源頼光を狙ったのだ」
と、語ります。それに対して独武者も負けていません。
「名刀にて傷ついているが、それだけでは済まぬ。命を絶ってやる」
そう宣言すると、率いる侍と共に、土蜘蛛に襲い掛かります。土蜘蛛も糸を投げかけて抵抗しますが、ついには独武者によって討ち取られてしまいました。
……と、これが能の「土蜘蛛」のあらすじです。
現在でもこの演目は度々、上演されています。圧巻なのは、シテである土蜘蛛が放つ蜘蛛の糸。和紙を細かく刻んで作られた糸は、次から次へと投げられて、舞台の上を真っ白に染めます。そして終演とともに、さっと回収されていく。伝統によって培われた技であると同時に、華やかな舞台演出。初心者でも楽しめる演目だと思います。
さて、こうして土蜘蛛を斬って「蜘蛛切」と名を変えた「膝丸」ですが、名前の変遷はそこでは終わりません。
源氏所縁の刀として、その後、源為義が受け継いだのですが、夜になると刀が鳴くことから、名を「吼丸」と改めました。そしてその「吼丸」は為義の娘婿に譲られました。この娘婿は名を行範。熊野別当……現在、世界遺産にもなっている和歌山県の「紀伊山地の霊場と参詣道」に含まれる熊野三山を統括する役職にありました。
しかし行範は、譲られた吼丸を見て、「私が持つべきものではない」として、これを熊野三山の一つ、熊野権現に奉納します。
それから歳月が流れ、源平の合戦の時。当時、熊野別当となっていた湛増は僧でありますが、武者でもありました。そして義経の命によって熊野水軍を率いて平氏追討に参加したのです。そしてこの湛増の手によって、「吼丸」は義経に献上されました。
「緑深い熊野の山から出て来た1振であるから」と、義経はこれを「薄緑」と名付け、携えて戦に臨みます。そして湛増らも参陣した壇ノ浦の戦い(1185年)で見事に平家を討ち果たしました。
しかしその後、義経は兄頼朝を差し置いて後白河法皇から官位を得たことが原因で、頼朝との間に不和が生じます。兄に会おうとする義経でしたが、鎌倉に入ることができず、手前の腰越にて足止めを食らいます。兄に許しを請う「腰越状」という文をしたためますが、ついに鎌倉に入ることができずに、都へと引き返すことになります。
その際、兄との不和を解消することができるよう、義経は「薄緑」を箱根権現に奉納したと、「平家物語」の「剣の巻」には残されています。
この「薄緑」は、確かに箱根神社に残されています。しかし同じ銘を持つ刀がもう一つ京都の大覚寺にも残っているのです。更にもう一振り、個人が所有するものも「薄緑」であると語り継がれています。
また、箱根神社の「薄緑丸」は、後に曽我十郎祐成と五郎時致の曽我兄弟に受け継がれ、父親の仇であった工藤祐経を討つために使われたという説もあるとか。この曽我兄弟の仇討ち話は、歌舞伎の世界ではおなじみ。江戸時代には毎年、お正月の恒例となっていた演目で、あの有名な「助六」も、曽我兄弟の物語のひとつです。
ただし、お芝居の中でこの刀は「髭切」の別名である「友切」であったとされており、「膝丸」と「髭切」のいずれが曽我兄弟の手に渡ったのか、判然としません。
現在まで残る3振。果たしていずれが、本物の「膝丸」改め「薄緑」なのかは定かではありません。あるいは、これからまた新たに発見されることもあるのかも……。
いくつもの謎が残る「膝丸」の物語ですが、史実と言えるものは何なのかと考えてみると、
この三つでしょうか。
その他のエピソードについては、語り継がれていくうちに多分に脚色され、創作が重ねられていったのではないかと思います。
しかし、そうした物語があったからこそ、膝丸は大切に伝えられ、現在もなお、宝刀として残されているのだと思います。
同様に、膝丸に関わる源義経という人物についても、史実そのものよりも物語の世界での方がより一層、愛されていると言えるかもしれません。戦の名手でありながら、兄に疎まれて悲劇の最期を遂げることになる義経。この義経が後白河院から賜った官位が「判官」であったことから「義経びいき」、ひいては、敗者をひいきする心理を「判官びいき」と呼ぶようになっています。
しかし歴史をひもといてみると、義経という人は果たしてほんとうに物語に描かれるような英雄だろうか……?と思うこともあります。確かに戦は上手でしたが、「いやいや、ここで官位を得たのは失敗では?」とか「逃げる時に白拍子を連れて行くのはマズイでしょう」とか、「実は男前じゃなかった説もあるらしい……」とか。
それでも、この義経を主人公として描かれた歌舞伎の「義経千本桜」や「勧進帳」を見れば判官びいきになりますし、小説やドラマで見られる凛々しい姿には、ほうっとため息も出るものです。
「膝丸」にせよ、義経にせよ、史実そのもの以上に、付随する物語が魅力的であればこそ、多くの人々に「もっと知りたい」と興味を持たれ、長らく愛されているのかもしれません。
「膝丸」または「薄緑」は、ゲームなどを通して今なお、新たな物語が紡がれています。数百年の後には、今語られている物語もまた、刀の伝説の一つとして更なる魅力になっていくのかもしれません。
プロフィール
小説家
永井 紗耶子
慶應義塾大学文学部卒。新聞記者を経て、フリーランスライターとなり、新聞、雑誌などで執筆。日本画も手掛ける。2010年、「絡繰り心中」で第11回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。著書に『商う狼』『大奥づとめ』(新潮社)『横濱王』(小学館)、歌舞伎を題材とした『木挽町のあだ討ち』(小説新潮)など。近著は『商う狼-江戸商人 杉本茂十郎』(新潮社)。第三回細谷正充賞、第十回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。
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