日本美術で定番のテーマのひとつに「洛中洛外図」があります。室町時代後期から江戸時代にかけて数多く制作され、100点ほどが今に伝わっています。
京都全体を空から見下ろす構図で、御所をはじめ公家の御殿、武家の屋敷、名高い神社やお寺、名所をちりばめ、四季折々の自然、庶民の日常、にぎやかな祭りや行列が描かれ、眺めていると町のざわめきが聞こえてきそうです。
「洛中洛外図」は、人々の日常や遊び、祭りなどを描く「風俗画」の一種です。そのルーツは平安時代の絵巻物にたどることができ、のちに江戸時代、浮世絵へと展開しました。
「洛中洛外図」で印象的なのは、画面のかなりの面積を占める金色の雲です。まるで、京都の街並みを雲の合間からのぞき見ているようです。
金の雲や霞は、平安時代の絵巻物から続く伝統的な表現で、距離や時間、季節を超越する役割を果たしています。というのも、「洛中洛外図」では、限られた画面のなかに多くの建物を詰め込むため、実際の位置関係や川の流れをゆがめたり、桜や雪など季節の異なる自然描写を並べたりしました。そうした地理や季節の辻褄を合わせるために、間に金雲を挟んだのです。木立や藪も同じ目的で描き込まれました。
また、雲のモコモコとした輪郭線や配置は心地よいリズムを生み出し、絵の構図をまとめ上げるのにも重要な役割を果たしています。
ところで、なぜ京都の景観図を「洛中洛外図」というのでしょうか。
京都が平安京と呼ばれた平安時代には、朱雀大路が南北に延び、その東側(左京)が中国の都「洛陽」、西側(右京)が「長安」になぞらえられました。やがて右京は荒廃し、左京のみが残ったため、「洛」が京都を指す言葉となったのです。室町時代には、京都の町なか「洛中」に対して、郊外を「洛外」と呼びましたが、足利将軍の邸宅「花の御所」は洛外にありました。そのため京都の範囲は、洛中と洛外をあわせた「洛中洛外」となったのです。
「洛中洛外図」の画題が生まれたきっかけは、応仁の乱(1467-77年)で京都が戦火に焼かれたためといわれます。それ以前も京都郊外の名所を描いた絵はありましたが、戦乱前の京都の姿をしのぶ公家たちの求めに応じ、街なかの情景が描かれるようになったのです。
また当時、雪舟ら中国・明に渡った禅僧たちが、中国の都のにぎわいを描いた絵を日本に持ち帰ったこと、そして、社寺の境内と周辺を描いた参詣曼荼羅や、四季折々の祭りを描き込んだ屏風などの伝統も、「洛中洛外図」誕生の土壌となりました。
古来、屏風は、折り畳んで簡単に移動できる便利な調度品であり、大広間を仕切ったり、風よけや目隠しに使ったり、また儀式の場を飾ったりしました。そして、屏風に描かれた絵を眺めることは、上層階級の日常の楽しみでした。そのため、姫君たちの嫁入り道具、新居祝いや病気見舞いなど様々な機会に贈答品としても用いられました。
とりわけ、権力と文化の中心・京都を描いた「洛中洛外図屏風」は特別な存在で、京都に対する憧れ、あるいは政治的メッセージが込められ、統治者が自らの力を誇示する目的で制作させたり、地方の権力者への贈り物として使われたりしました。通常、6枚折れの屏風がペアになっている「六曲一双」と呼ばれる形式になっています。
文献に確認できる最古の「洛中洛外図屏風」は、戦国時代、越前(現・福井県)の大名・朝倉貞景が、宮廷絵所預(宮中の絵師のリーダー)・土佐光信に依頼して描かせたものです。朝倉氏は自らの城下町を建設するにあたり、都市のモデルとして京都の絵を求めたといわれます。
「洛中洛外図屏風」の最高傑作といわれる天才絵師・狩野永徳の作品は、もともと室町幕府将軍・足利義輝が越後(現・新潟県)の上杉謙信に贈るために注文したものの、義輝はその完成前に自害し、のちに室町幕府を滅ぼした織田信長が謙信に贈ったと伝わります。
各時代の「洛中洛外図屏風」を見ると、描かれた建物やその大きさ、配置から、制作者や当時の人々が感じていた時代の情勢、パワー・バランスをうかがい知ることができます。
中世の「洛中洛外図屏風」で目立つのは、朝廷の内裏、室町幕府の花の御所、そして、幕臣のなかでも、将軍家をしのぐ権力を持った細川家の邸宅という三つの建物です。
江戸時代の作にも内裏は変わらず描かれましたが、室町幕府と細川家の建物は消え、代わりに豊臣秀吉が建立した方広寺と秀吉を祀る豊国神社が加わり、さらに徳川家康が京都における徳川家の拠点として建てた二条城がもう一つの主役となりました。
また、2代将軍徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内したときの壮麗な嫁入り行列や、後水尾天皇が3代将軍家光の招きに応じて二条城へ行幸したときの行列が、見物する町衆とともに描かれるようになりました。朝廷と江戸幕府の融和や、徳川幕府の権威の確立を象徴する出来事です。
なお、家康から家光までは、将軍が京都に赴いて朝廷から征夷大将軍を任じられる儀式が行われましたが、その際、諸大名や徳川家の家来たちが大挙して京都を訪れ、競って洛中洛外図屏風を注文したようです。
江戸時代、世の中が安定すると、「洛中洛外図屏風」の制作意図が変化しました。同時代の京都の様子を伝える目的はなくなり、祇園祭の山鉾巡行や、かつて行われた徳川和子の婚礼行列、後水尾天皇の行幸などを描き込んで、雅で華やかな京都のイメージを表す伝統画題となったのです。町衆の嫁入り道具にも使われるようになり、また、町絵師が描いた「洛中洛外図」が京土産として人気を得ました。
「洛中洛外図」は、こうして時代に即して形を変えながら、数世紀にわたり描かれ続けたのですね。日本美術の展覧会に行くと出会えることが多い画題なので、ぜひ注目してみてください。
※東京国立博物館で11月29日まで開催中の特別展「桃山-天下人の100年」では、最高傑作といわれる狩野永徳の作品をはじめ、計5件の「洛中洛外図屛風」 をご覧いただけます(展示替えあり)。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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