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2020.6.1

【橋本麻里のつれづれ日本美術】「古今伝授の太刀」の物語(後編) イレギュラー尽くしの歌道継承と、名刀の贈り物

『幽斎古今伝授証明状案』(紙本墨書、慶長5年7月29日) 永青文庫蔵
武将幽斎に「古今伝授」の白羽の矢

さて、ここでようやく細川幽斎が登場する。歌道も含めた学芸の家であった三条西家では、実隆さねたかが後奈良天皇(在位:1526-57)に、また実隆の嫡男公条きんえだ(1487-1563)は正親町天皇(在位:1557-86)に古今伝授を行っている。孫の実枝さねき(1511-1579)までを加えて「三条西三代」とうたわれる、最後の碩学せきがくに師事したのが幽斎であった。

ところが実枝の子公国きんくに(1556-1588)は、遅くに生まれた子であったため、伝授に足る学問的成熟を待つ時間があるかどうかわからない。そこで高弟の一人である幽斎がいったん古今伝授を預かり、後日公国へ「返し伝授」を行うという、イレギュラーな継承が行われることになった。

本来なら同じ公家の中から和歌、学芸に優れた人士を選べばいいところ、なぜあえて武家の幽斎を選んだのか。人柄、資質ともに優れていた、という解釈もあるが、古今伝授の相伝は、過去には門下で最も才ある弟子が受けるものだった。

研究者の中には、それをげて世襲とした三条西家が、家の外、とりわけ同じ公家に預けることに不安を感じていたからではないか、と考える者もいる。事実、幽斎へ「預ける」にあたっても、秘説を口外しないこと、他流と混乱させないこと、許しなく他家から説を聞かず、他人へも説かないことを事前に誓約させており、「流出」を警戒していたことがうかがわれる。

実枝から幽斎への講釈は、元亀3年(1572)〜天正2年(1574)にかけて行われたが、この時期は細川家が将軍家から信長支持の立場を明確にし、嫡男忠興と明智光秀息女玉(ガラシャ)との縁組が持ち上がり、さらに本願寺派、越前一向一揆との戦闘にも出るなど、武将として多事多端な時期でもあった。

天正7年(1579)に実枝が没すると、幽斎はさっそく公国への「返し伝授」を開始、翌8年(1580)には伝授の証明状を与えている。師との約定を果たし、義務から解放された幽斎は、近衛尚通や牡丹花肖柏に伝わった古今伝授の切紙も入手、枝分かれした内容の集大成に意を注いでいた。

ところが──である。あろうことか、ようやく伝授にぎ着けた公国が、32歳の若さで没してしまうのだ。公国の子、実条さねえだ(1575-1640)は幼小で、伝授は覚束おぼつかない。再び宙に浮いた古今伝授を誰に託すかという難問について、当初、後陽成天皇(1571-1617、在位:1586-1611)が候補となった。だがこれは、いまだ若年であるとして、母の新上東門院が退けている。

戦乱の世に「古今伝授」はついに途絶える?
国宝 太刀 「銘 豊後国行平作」 鎌倉時代 永青文庫蔵

次に白羽の矢が立ったのは、後陽成天皇の弟にあたる智仁親王であった。智仁親王は豊臣秀吉の猶子(養子)となるが、後に秀吉に実子が生まれたため、八条宮家を創立。智仁親王が幽斎に『伊勢物語』の講釈を求めるなど、学芸を通じた親交が以前からあり、約20年後の元和6年(1620)、家領の下桂村で造営を始めた別業(別荘)が、子息智忠親王の代で「桂離宮」として完成される、風雅の宮でもあった。

幽斎自身の年齢と政治的な緊張の高まりから、もはや猶予はならないとの判断もあったのだろう。智仁親王への伝授が始まったのは慶長5年(1600)。幽斎67歳、親王22歳の時である。

ところがその講義半ばで、情勢は一気に加速する。同年6月、徳川家康が会津の上杉景勝討伐に向かい、忠興もこれに同道。隠居の身の幽斎は丹後へ帰国し、田辺城(京都府舞鶴市)で留守を預かっていた。一方、石田三成は家康不在の間隙を突いて、7月に大坂で挙兵。忠興の妻、玉(ガラシャ)が人質となることを拒み、大坂屋敷に火をかけて自害したのも、この時である。

三成は丹後攻略のため、ただちに1万5千の軍を派遣。報を受けた幽斎は丹後国内の城を焼き払って田辺城へ人員と兵糧を集約し、7月18日、籠城戦へと突入した。老練の戦巧者幽斎が陣頭に立つとはいえ、田辺城を守る手勢はわずか500。同27日、古今伝授の断絶を恐れた智仁親王は、侍臣を遣わし籠城中の幽斎に開城を勧めた。だが幽斎はこれを拒否。古今伝授の資料一式と相伝の証明状を、「古も今もかわらぬ世の中に こころのたねを残す言の葉」という歌とともに使者に託した。紀貫之による『古今和歌集』の仮名序、「やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」を踏まえ、講義途中の古今伝授について、資料すべてを引き渡すことで確かに伝えたという、覚悟の歌にも読める。

朝廷による説得は続く…

その後も朝廷側ではなお幽斎を惜しんで和睦の斡旋あっせんを続け、ついに9月12日、後陽成天皇の勅命を奉じ、中院なかのいん通勝みちかつ三条西さんじょうにし実条さねえだ烏丸からすまる光広みつひろらが勅使として田辺城へ到着した。

いずれも幽斎とは浅からぬ縁のある公家たちだ。通勝は24歳で正親町天皇の勅勘をこうむり、丹後国舞鶴に出奔。籠城戦のわずか1年前に許されて帰京するまで、19年間を丹後で過ごした。その間に親交を結んだ幽斎とは師弟、というより共同研究者のような立場で、多忙な幽斎の研究を助け、『源氏物語』の諸注を集成した『岷江入楚みんごうにっそ』55巻を完成させたばかりでもあった。

三条西実条は、実枝、公国と2代にわたって幽斎を介して相伝を受けてきた三条西家の、古今伝授を待つ身である。

そして光広はといえば、近世初期を代表する堂上歌人、また後に近衞このえ信尹のぶただ松花堂しょうかどう昭乗しょうじょう、本阿弥光悦ら「寛永の三筆」と並び称される能筆として知られる。20歳の頃から幽斎に師事して和歌を学び、慶長3年(1598)から慶長7年(1602)にかけて、幽斎から受けた教えを『耳底記にていき』としてまとめた。記録を見る限り、慶長5年前後の数年、もっとも頻繁に幽斎と会っている人物でもある。

2か月に及ぶ籠城中も、忠興がひそかに送った使者の出入りはあり、外部の情勢は幽斎の耳に届いていたらしい。勅命の重みは当然あるにせよ、ここが引き時と見切ったのか、幽斎は講和を受け入れ、城を出た。わずかな手勢で2か月も大軍を引き付け、関ヶ原へ向かわせなかった幽斎の戦功は大、と後日賞されることになるわけだが、西軍側にも歌学をはじめ幽斎の薫陶を受けた者は多く、「空鉄砲だった」という話が伝わるなど、攻めあぐねていた節がある。

一方の朝廷にも思惑はあった。幽斎の死による古今伝授断絶を恐れた、という言説は、一面では事実であったかもしれない。だが彼ら公家がりどころとする文化の力が、武士たちにとっても重要な価値を持つこと、また武士たちがそのような文化の力に対して、ある種のコンプレックスを感じていることを十二分に承知した上で、幽斎の一件を政治的に利用した感は否めない。そうして幽斎を高く処遇することが、ひいては自分たちの持つ文化の力と権威を、一層引き上げることになる、というわけだ。

ようやく完全なる伝授…記念で贈られた名刀
『幽斎古今伝授証明状案』(紙本墨書、慶長5年7月29日) 永青文庫蔵

《太刀 銘 豊後国行平作》は、この折の記念として、幽斎から烏丸光広に贈られた(幽斎は慶長8年、光広にも古今伝授相伝証明状を与えている)。

『古今和歌集』はその序文で、「やまとうたは(中略)力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」と謳う。文雅の力、そして政治の力は天皇を動かし、西軍の兵の刀を鈍らせ、幽斎の命を救ったのだ。

命永らえた幽斎はこの後、あらためて智仁親王への講釈を行い、智仁親王も聞書の整理や校合、資料の筆写などを数年がかりで進め、慶長7年(1602)秋をもって、完全な形での伝授を終えた。以後、智仁親王から後水尾天皇へ、さらに後西天皇、霊元天皇へと古今伝授は継承され、「御所伝授」が近世歌壇においてもっとも権威ある古今伝授となっていくのである。

武将細川幽斎が古今伝授を行うまでの物語は前編で。武士はなぜ和歌を究めようとしたのか…? その背景から紐解きます。 

橋本麻里

プロフィール

ライター、エディター。

橋本麻里

新聞、雑誌への寄稿のほか、NHKの美術番組を中心に、日本美術を楽しく、わかりやすく解説。著書に「美術でたどる日本の歴史」全3巻(汐文社)、「京都で日本美術をみる[京都国立博物館]」(集英社クリエイティブ)、「変り兜 戦国のCOOL DESIGN」(新潮社)、共著に「SHUNGART」「北斎原寸美術館 100% Hokusai !」(共に小学館)、編著に「日本美術全集」第20巻(小学館)ほか多数。

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