この数年の「刀剣ブーム」で日本美術
行平作の太刀は総じて細身で腰反りが高く優雅な作風。本作も鍛えは小板目に
また行平は刀身に彫刻を施したもっとも古い刀工としても知られ、本作も
「古今伝授の太刀」の名は、近世細川家の祖であり戦国を生きた武将、細川幽斎(藤孝、1534〜1610)が、その
放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する幽斎は、室町幕府の幕臣・
※1 奈良時代以降、官僚の候補生である学生に対する教育と試験のために設置された大学寮において儒学を研究・教授した学科
※2 舎人親王の血筋を称する中堅貴族で、明経道の教官職を代々世襲する。平安時代の清少納言はこの家系の出身。幽斎の母も清原家出身で、屈指の碩学(せきがく)・清原宣賢の娘であった。
武勇のみならず、能、和歌、
国文学者の小川剛生氏は、『武士はなぜ歌を詠むか』(角川学芸出版、2008年)で、源氏将軍宗尊親王、足利将軍足利尊氏、太田道灌から今川、武田、北条氏ら戦国大名までを取り上げ、彼らが熱心に和歌を学んだことの意味を解いている。乱世にあって武将たる者は、戦に長け、智略を有していなければ生き抜くことは難しい。だが同じように、武士たちが生来持っていない朝廷からの官位と、文化の象徴たる和歌の力は、人心を掌握し、家臣や一門の結束をはかるための、非常に重要な教養だったのだ、と。
話し言葉としてのやまと言葉、書き言葉としての漢字を手に入れた上古の日本人は、日常使う言葉とは違う、神仏に祈りを届けたり、権力者を祝福したり、恋する相手を振り向かせたりする特別な言葉として、五・七の繰り返しからなる定型を備えた、和歌を生み出した。
7世紀に編まれた『万葉集』にはまず、雄略天皇が「籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくしも持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね……」と謡う、菜摘みの乙女への妻問いの歌が、その次に舒明天皇の「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば……」という国見の歌が置かれた。いずれも五穀
平安時代初期の延喜5年(905)、醍醐天皇の勅命によって
だから天皇の命で勅撰和歌集が編まれ、天皇の代替わりの際の
和歌と国家が分かちがたく結びついている限り、宮廷=歌壇であり、その頂点に座すのは天皇、そして有力政治家=歌人として、政界と歌壇が同心円を描くように重なり合って存在していた。それゆえに、天皇や貴族が主催者となって催される歌合(※3)も、単なる文学的遊戯には終わらず、不名誉が死に繋がるほどの重大事と見なされた。
※3 歌の作者を左右に分け、その詠んだ歌を各一首ずつ組み合わせて、判者が批評、優劣を比較して勝負を判定した。
では彼ら貴族が力を失い、実力本位の武士たちが台頭してくると、和歌は顧みられなくなったのだろうか。
武士たちもまた、歌を詠んだ。『吾妻鏡』は平家が壇ノ浦に沈んだ翌年の1186年、鶴岡八幡宮に参詣した西行に、源頼朝が歌道のことや弓馬のことを熱心に尋ねたと記している。新たな為政者として、武力だけでなく、権威を帯びなければならなかった頼朝もまた、国家やその支配と結びついた和歌の力を必要としていたのだ。
他方、貴族たちに権威はあれども実権がない。この時代に生を
また「新古今」の時代に確立した歌の技法に、本歌取りがある。誰もが知っている古歌を踏まえて新しい歌を詠み、それによって古い歌をも再生する技法で、やはり歌人として重きをなした定家の父、藤原俊成が完成させた。これも古き良き時代を、文化の上でも政治の上でも復活させようという時代の流れと、軌を一にしている。
冒頭書いたとおり、初めての勅撰和歌集である『古今和歌集』は、和歌の規範として重んじられたが、これには「歌学」「歌道」の成立が深く関わっている。当初は「唯一の高度な宮廷文芸」であった漢詩文の
「歌人」を家職とする家系が生まれたのは、平安時代中期頃のこと。平安時代末期に入ると、宮廷社会における技芸としての和歌が重んじられるようになり、技術と理念との両面から、和歌はいかにあるべきかが追求された。そのための知識と、それらを学習するための体系だったシステムが、それぞれの和歌の家で整備され、歌道と呼ばれるようになっていく。
これを継承するのが
印刷が普及する以前には、『古今和歌集』であれ『源氏物語』であれ、それを手元に置きたければ、写本をつくるしかない。しかし数百年を写し継がれていく間に、間違いが紛れ込み、あるいはあるべきものが脱落して、本来の正しい姿を失っている可能性もある。歌道の家は弟子に対して、由緒正しい本文を伝え、他のよりどころとなる「証本」を授受し、これを教科書として訓読解釈の講義を行ったのだ。この歌学の体系の最奥に位置していたのが「古今伝授(「伝受」の表記もあり)」である。
古今伝授、という意識が生まれたのは院政期の頃とされ、当初は『古今和歌集』20巻の証本の授受と、その講釈が全てだったようだ。だが歌学の世界に複数の流派が分立し、自家の歌学の正統性と権威化を競うようになれば、それは自ずと秘伝化へと向かう。講釈の補助として、核心部分を記して弟子へ伝えられていた
常縁は二条流の
※4 室町前期の歌人。歌僧頓阿(とんあ)の孫堯尋(ぎょうじん)の子。広く公武僧の歌人と交わり、温雅で伝統的な歌風を主張した二条派の代表的な歌人(二条常光院流)で、室町時代の最後の勅撰和歌集『新続古今和歌集』の選進にあたっては、和歌所開闔(かいこう、事務主事)として、撰者の飛鳥井雅世(あすかいまさよ)を助けた。
肖柏の流れはさらに堺伝授、薩摩伝授と称される2派に分かれる。ともあれ主流となったのは三条西実隆に伝えられた流れで、三条西家から細川幽斎、八条宮智仁親王を経て後水尾天皇、さらに歴代天皇、上層公家に伝えられ、「御所伝授」として江戸時代を通して受け継がれた。
戦乱の世、幽斎による「古今伝授」と、その名を持つ刀のドラマは後編で紹介します。
プロフィール
ライター、エディター。
橋本麻里
新聞、雑誌への寄稿のほか、NHKの美術番組を中心に、日本美術を楽しく、わかりやすく解説。著書に「美術でたどる日本の歴史」全3巻(汐文社)、「京都で日本美術をみる[京都国立博物館]」(集英社クリエイティブ)、「変り兜 戦国のCOOL DESIGN」(新潮社)、共著に「SHUNGART」「北斎原寸美術館 100% Hokusai !」(共に小学館)、編著に「日本美術全集」第20巻(小学館)ほか多数。
0%