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2024.4.4

【工芸の郷から】赤間硯 ― 頼朝、松陰御用達 800年の歴史(山口県)

赤間石を力強く彫り進める日枝陽一さん

赤みを帯びた石が、ノミで少しずつ削られていく。体重をかけたノミの柄が、ぐっと右肩に食い込む。

山口県宇部市の山あいの集落に、800年以上の歴史を持つ「赤間すずり」の職人、日枝陽一さん(50)の工房はある。近くの採石場から掘り出した「赤間石」と呼ばれる赤色頁岩けつがんから作られる硯は、発色のよい伸びのある墨汁を引き出すと重宝されてきた。

鎌倉時代の初め、源頼朝が鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)に奉納した硯が、この赤間硯とされる。12世紀末には作られていたとみられ、江戸時代初期の文献には「赤間硯」の名が登場する。幕末の思想家、吉田松陰も愛好し、松陰神社(山口県萩市)には、その硯がご神体の一つとして収められている。山口県下関市の古称「赤間関あかまがせき」に由来し、同市で作られてきたが、江戸時代に採石場が宇部市に移ってからは、両市が産地となった。

最盛期の明治時代には、300人を数えた職人も現在、両市にわずか6人。さらに採石から、彫り、磨きといった制作までを一貫して手がけるのは、日枝さんら宇部市の3人だけだ。工房4代目の日枝さんは2002年から、父・敏夫さん(77)に師事し、技術を磨いてきた。

体に合うよう自身で柄の長さを調節したノミ

研究家でもある。大学院時代、文献がほとんどなかった赤間硯を論文のテーマに選び、硯の表面や原石の成分を分析した。「赤間硯はすれない」と酷評された戦後の一時期について、硯を磨く工程で天然砥石といしではなく、人工砥石が用いられたことがその原因だったことを突き止めた。また、原石を形成する粒子が緻密ちみつなため、墨汁の粒子も細かなものになることを実証してみせた。

かな文字を書いたり水墨画を描いたりするのに適しており、日枝さんはこれらに取り組む多くの女性のために、硯の形を楕円だえんにすることで軽量化を図った。これが支持され、今では制作が追いつかないほどの人気だという。

デザイン性と軽量化を追求した楕円型の硯(右手前)と、従来の硯(右)

心を砕くのが、後継者問題だ。「独り立ちした時に、安定した収入を得られるような環境を作りたい」。硯を彫る際に出る粉末を焼き物の釉薬ゆうやくに活用したり、石を使ったブレスレットを開発したりと工夫を重ねている。

「“墨をする人”を増やしたい。そのためにも感動を得られる本物の硯を作り続けたい」

(西部文化部 井上裕介、写真も)

(2024年3月27日付 読売新聞朝刊より)

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