美術展のタイトルに「狩野派」という言葉を見たことはありませんか? 狩野派ってなに? ―その答えは、日本絵画史上最大の絵師集団です。初代・狩野正信を祖として室町時代に誕生し、戦国時代、江戸時代と、長きにわたって子孫や弟子たちが活躍しました。
信長が室町幕府を倒すも、やがて本能寺に散り、秀吉が天下をとり、やがて時代は徳川へ。
目まぐるしく移り変わる戦乱の世で、武将たちの城や邸宅を飾った障壁画の多くを狩野派が手がけたのです。
初代・正信は、中国の絵画に学んだ「漢画」をよくし、室町幕府の御用絵師として活躍。その長男・元信は、代々宮廷に仕えた絵師集団・土佐派の土佐光信を義理の父に持ったと伝わり、日本伝統のやまと絵も吸収。金碧画(金箔を貼った画面に描いた絵)にも取り組みました。そして狩野派ブランドを確立し、多くの弟子を率いる工房体制を築いたのです。
この元信の孫こそ、今回の主役、狩野永徳です。
永徳が生まれたのは室町時代末の1543年1月。その年の夏、種子島にポルトガル船が漂着し、日本に鉄砲が伝わりました。戦国の世を駆け抜けた天才絵師にふさわしい幕開けですね。
祖父・元信はこの孫に狩野派の将来を託し、英才教育を行ったようです。永徳が数え10歳となった年、室町幕府第13代将軍・足利義輝への年賀の挨拶にこの孫を連れていったといいますから、その期待のほどがうかがえます。
元信が83歳で世を去ったとき、永徳は17歳の頼もしい青年絵師に成長していました。
その翌年の1560年には、織田信長が桶狭間の戦いで勝利し、全国制覇へと歩を進めていきます。
そんななか、足利義輝が越後(今の新潟県)の上杉謙信に贈るため、22歳の永徳に京都の景観を描く「洛中洛外図屏風」の制作を命じたといいます。翌年、建物の間を縫うように金箔の雲を貼りめぐらせた、大変華やかな屏風が完成しました。
しかし、その完成を待たず、義輝は襲撃を受けて自害。それから8年後、信長が15代将軍・義昭を追放し、室町幕府が滅亡します。そして翌年、この屏風は、信長から謙信へと贈られることとなるのです。下克上の世を象徴するようなエピソードですね。
時に永徳32歳。ともに新たな時代を切り開いた、武将・信長と絵師・永徳の幸福な出会いでした。
それから2年後の1576年、信長は安土城の築城を開始し、その障壁画制作を永徳に命じます。永徳は、弟の宗秀に家督を譲って京都から安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)に移り住み、信長のお抱え絵師となりました。
信長が永徳に描かせた作品は膨大で、そのうち今は行方不明となった「安土城図屏風」は、信長が宣教師に託し、なんとローマ教皇に贈ったと伝わります。
天下統一に王手をかけていた信長ですが、1582年、家臣・明智光秀に襲撃され、自害に追い込まれました。本能寺の変です。安土城もまた、永徳が一門を率いて手がけた数多くの障壁画もろとも炎上。城の完成からわずか3年後の出来事でした。その無念さは計り知れません。
その後、信長の家臣であった豊臣秀吉が光秀らを討ち、天下統一を達成。秀吉もまた永徳を召し抱え、己の力を見せつけるような大御殿を建てて、障壁画の制作を命じます。
大坂城を皮切りに、正親町天皇の隠居所として建てた仙洞御所の対面所(現・南禅寺大方丈)、京都の邸宅・聚楽第、母・大政所のために建てた大徳寺天瑞寺、そして、正親町天皇の孫である智仁親王のために創設した八条宮家の御殿まで。
その仕事量は狩野派一門を総動員しても追いつかず、ときに親戚であった土佐派にも協力を求めたとか。今に伝わる永徳の手紙には、昼夜の区別なく描き続ける多忙ぶりが記されています。
膨大な注文をこなす必要から、永徳はやがて、ひとつのモチーフを巨大に描く「大画様式」を確立しました。例えば、部屋じゅうの襖絵を大きな松の木のモチーフでまとめあげるのです。大きなモチーフに説得力を持たせるため、ガサガサした藁筆を使って木の幹や岩に重厚な質感を加えました。
もとより永徳が持って生まれたエネルギーは、細かく小さな絵には収まりきらないスケールだったのでしょう。
なかでも、金箔を貼った大画面にモチーフを巨大に描く「金碧大画」は、永徳の十八番でした。
その代表格が、世に名高い「唐獅子図屏風」です。中国伝来の霊獣・唐獅子。勇ましい顔つき、堂々たる体、そして渦を巻く尾とたてがみがのびやかに描かれ、まさに王者の風格です。同時代に類を見ない高さ2メートルを超える大画面のため、今はなき聚楽第の障壁画として制作されたのではないかともいわれます。絵の中から飛びださんばかりの迫力と金箔のきらびやかさは、派手好きの秀吉の心を鷲掴みにしたことでしょう。
とはいえ、あまりに多くの作品を長年描き続けたため、永徳の剛腕にも陰りが見えていきました。粗く、殺伐とした気配さえ漂う作品を描くようになるのです。
一方、永徳の大画様式は、長谷川等伯や海北友松といった同世代の絵師たちにも影響を与えました。中でも、長谷川派を率いる等伯は、1590年、御所の障壁画の仕事を狙って永徳に下克上を挑みます。永徳はその野望を阻むことはできたものの、この年にあっけなく世を去ります。48歳でした。多忙な日々が招いた過労死だったのかもしれません。
それから8年後、太閤秀吉が死去。2年後の1600年には関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を取り、江戸時代へ。まもなく狩野家にも次なる天才、探幽が誕生しました。その早熟ぶりに2代将軍・徳川秀忠は、「永徳の再来」と絶賛したと伝わります。
戦国時代の終焉に合わせるように生き急ぎ、燃え尽きた永徳。戦乱の世の定めというべきか、悲しいことに今はその障壁画の多くが残っていません。しかし、その豪壮華麗な作風は桃山という時代そのもののイメージとなり、美術史上に燦然と輝き続けています。
永徳の魅力的な人生ドラマは小説にも描かれています。機会があれば、希代の天才絵師の生きざまに浸ってみてはいかがでしょうか。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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