2021.3.1
久隅守景筆 国宝「納涼図屏風」
「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ、日本美術の面白さを再発見してください!
初回は、東京国立博物館研究員の松嶋雅人さんです。松嶋さんが紹介してくださるのは、江戸時代の画家、久隅守景の代表作、国宝「納涼図屏風」。松嶋さんの解説で読み解くと、絵師の思いや時代背景など、奥深い世界に目を開かれます。
―「納涼図屏風」を初めて間近にご覧になったのはいつですか?
東京国立博物館(東京・上野公園)に勤め始めるまでは、しっかりと見たことがなかったと思います。図版だと、絵の傷みまではわかりませんが、実物は汚れや破れの痕が多く、たくさん手が入れられてきたのだと感じました。
子どもを真ん中にした川の字ではなく、子どもが外側にいますよね。そのため、この3人を「夫婦と子ども」と見るには少し違和感があります。そうではなく、このちょんまげを結っているのが守景自身で、左は駆け落ちしていなくなった娘、奥にいる子どもが不祥事を起こして佐渡に流された息子のように思えたのです。つまり、離ればなれになった子どもたちと自分を描いたのではないかということです。
日本の絵画では古来、伝統的に、目の前にある情景は描きません。ですから、この絵も空想の世界で、守景が過去の理想的な情景を描いた、ということです。
もちろん、昔の画家は注文主の意向に沿って描いたため、自分の主張を絵の中に全面的に出すということは、ありえませんでした。とはいえ、ある程度入り込む可能性はあったでしょう。近代的な自我という意味ではなく、絵描きが自由自在に筆を扱えば、自分の思いが絵ににじみ出ることもあったのではないか、ということです。
《国宝「納涼図屏風」》 実を付けた夕顔(実際には瓢箪だが、江戸時代、瓢箪も夕顔と呼ばれた)は、晩夏の風物。満月は秋を感じさせる。満月を見る3人の背後が大きく開いた不安定な構図には、画家の意図がうかがえる。この絵の主題とされる和歌、「夕顔の さける軒はの 下すゝみ 男はてゝれ 女はふたの物」は、木下長嘯子(秀吉の正妻・北政所の甥)の作と伝わり、守景の時代には、万葉集の歌と考えられていたという。「てゝれ」は、加賀の方言で「粗末な着物」を意味するという説や、着物はあとから描き足されたという説もあるが、いずれも確証はない。
―守景は、誰の注文でこの絵を描いたのでしょうか?
注文主はわかっていませんが、東洋絵画に昔からある「勧戒図」、つまり、上に立つ人の戒めになる絵のひとつとして注文されたのでしょう。領民が不安なく健やかに農耕をして暮らせるようにという、領主の思いを反映する絵画です。江戸時代初期を生きた守景は、武家の矜持のような部分を持っていたと思われ、こうした絵が描けたのではないかと思います。
実は、「納涼」という画題自体も、この絵以前にはほぼ例がないのです。「四季耕作図」の中に小さく描き込まれた程度で、他の絵師も描いていません。季節の行事を描いた絵の伝統はありましたが、この絵は瓢箪の実や月が晩夏や初秋を感じさせるとはいっても、あくまで日常のワンシーンですよね。
なぜ突然、こんなテーマが現れたのか。この絵の時代背景としては、応仁の乱以降、100年近く続いた戦乱の世を経て、ようやく江戸幕府の安定した治世が始まった頃でした。文化の担い手は貴族から武家、そして、商人へと移ったため、価値観も大きく変化し、当時の人々は心情的にもさまざまな変化を経験していたことでしょう。
そんななかで守景は、古い時代の価値観を承継しながら自分の暮らしと連動させて、大きな心根というか、胸中を表した、唯一の人のように思います。
守景の師で狩野派を率いた狩野探幽は、画業の始め、室町時代の雪舟のような作風でしたが、その後、「瀟洒淡泊」と呼ばれるスタイルに変わっていきました。守景の娘と息子も含め、狩野派の絵師たちはそれに倣ったのですが、守景だけは、ひとり、雪舟のようなスタイルを貫きました。そして守景の画風を継いだ人も全くいません。
《久隅守景(くすみ・もりかげ)》 江戸時代初期に活躍。生没年不詳。謎の絵師と言われる。狩野派を率いて江戸幕府の御用絵師を務めた狩野探幽(1602-74年)に師事。探幽門下四天王のひとりに数えられる。探幽の姪と結婚。加賀藩の画事御用を務めたこともあり、富山・高岡の瑞龍寺(加賀藩2代藩主・前田利長の菩提寺)に「四季山水図襖」が伝わる。娘と息子も狩野派に入門するが、娘は駆け落ちし、息子は遊郭通いとそれに続く揉め事により佐渡に流された。子どもたちの不祥事によってか、守景は、狩野派の公式の画事御用の一線から退いたといわれる。通常、四季の情景を描いた日本の屏風絵では、画面右から左へと春夏秋冬が進むが、守景の「四季耕作図」は、左から右に季節が進むものが多い。
私が学生だった1980~90年代の美術史の世界では、守景の人物像は、狩野派の中で完全に「異端」という扱いがもっぱらでした。体制と折り合わなかったため破門されて、中央から出て行ったと考えられていたのです。
しかし、現在では、息子と娘の不祥事のため、自ら、狩野派の中心から外れていったという見方が強いと思います。また、探幽を中心とした狩野派の画風が変化していったため、方向性が合わないから外へ出た、ということがあったかもしれません。
それから、守景は、加賀藩に御用絵師として、6年ほど滞在したと伝わり、金沢には守景の伝説がたくさん残っていますが、実際に住んでいたかはわかりません。京都に住んで、描いた絵を金沢に送っていた可能性もあるからです。
このように日本の絵画史では、作品そのものの価値は別として、明治、大正、昭和、戦中、戦後と、時代ごとに見方がどんどん変わっていきます。今、人気の伊藤若冲も、明治時代以降は長らく忘れられていて、それが、2000年に、京都国立博物館での展覧会で広く知られるようになり、06年に東京国立博物館で行った展覧会で一気にブームになりました。守景についても、時代によって見方が変化してきたのです。こうしたことも、美術史という学問の魅力ですね。
◇ ◇ ◇
時代の転換期を生きた守景の人物像から、美術史学の面白さへと広がった、松嶋さんのお話。次回は、学生時代に守景に惹かれた理由から、日本美術全体の魅力まで語っていただきます。
(わたしの偏愛美術手帳 vol. 1-中 に続く)
【松嶋雅人(まつしま・まさと)】 1966年、大阪市生まれ。金沢美術工芸大学大学院・修士課程修了。東京芸術大学大学院・博士課程満期退学。現在、東京国立博物館研究員、文化財活用センター・企画担当課長。多数の展覧会を企画。「京都―洛中洛外図と障壁画の美」(2013年)では、館外壁へのプロジェクション・マッピングを監修。TNM&TOPPANミュージアムシアターでは、VR映像作品「国宝 松林図屛風―乱世を生きた絵師・等伯―」(20年)ほかを監修。細田守監督のアニメーション映画「時をかける少女」(06年)の作中に登場する展覧会、同展をバーチャル空間で再現した「アノニマス-逸名の名画-」を監修。NHK Eテレ「びじゅチューン!」との共同企画「トーハク×びじゅチューン!」(18年、20年)を企画・監修、各地を巡回。著書に「細田守 ミライをひらく創作のひみつ」(美術出版社)、「あやしい美人画」(東京美術)、「日本の美術 No.489 久隅守景」(至文堂)ほか。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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