銀製ではないボンボニエールのシリーズ、今回は、きらきらとした七宝で制作されたボンボニエールをご紹介しよう。
七宝焼とは、銀や銅などの「金属」の表面に色とりどりのガラス質の釉薬をのせて焼き付けたもので、紀元前の古代メソポタミア文明や古代エジプト文明にすでにあった。有名なエジプトのツタンカーメンの黄金のマスクも七宝焼。金の素地にラピスラズリを模したガラス釉を溶着させて作られている。その後、七宝焼はシルクロードを通り、中国を経て日本に伝わった。正倉院宝物の中にも「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」という七宝焼がある。
七宝とは「七つの宝」という意味で、仏教の経典にある七種類の宝「金、銀、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙」をちりばめたように美しいものという意味で名づけられた。
日本で七宝焼が広く作られるきっかけとなったのは、オランダ由来の七宝皿をもとに、尾張藩士・梶常吉が天保3年(1833年)に七宝の作り方を発見したことに始まる。常吉から製法を伝授された林庄五郎とその後継者たちによって、近代七宝の生産地として有名になる七宝村(現・愛知県あま市七宝町)の基盤が作られ、各地へ七宝の製法が広まった。
日本の七宝焼が世界に知られることになったのは、万国博覧会への出品がきっかけである。庄五郎の弟子である塚本貝助は、明治6年(1873年)のウィーン万博に大型の花鳥文花瓶を出品した。以来、各地の万博に日本から多くの七宝焼が出品され、その巧妙さ、精美さで、世界的に高い評価を受け、ジャポニスムブームの中、明治期の主要な輸出産業となった。
塚本はその後、東京・亀戸にあったアーレンス商会の工場長に招かれ、そこでドイツ人化学者ワグネルと出会い、七宝釉薬の改良に成功した。塚本が透明釉を開発したことで、七宝にきらきらが生まれたのである。
明治期の七宝焼を代表する作家が、「2人のナミカワ」と称される涛川惣助と並河靖之である。
濤川惣助は、明治10年(1877年)に開催された第1回内国勧業博覧会で七宝を見てその道を志し、すぐにアーレンス商会の七宝工場を買収し、明治13年(1880年)には、無線七宝を発明したとされている。七宝焼は通常、素地の上に金属線で模様を描き、そこに異なった釉薬を入れて焼き付けることで図柄を作る。無線七宝には、その金属線がない。釉薬がまじりあって「ぼかし」の効果が得られるが、それ以前に、ぐちゃぐちゃになってしまう危険が高い高度な技法なのである。
この技法で焼かれたのが、明治42年(1909年)に建設された国宝・迎賓館赤坂離宮、花鳥の間を彩る七宝焼。明治を代表する日本画の巨匠・渡辺省亭が下絵を描き、涛川惣助が焼いたものである。その美しさは絵画と見まがうばかり。一見の価値ありである。
もう1人のナミカワ、並河靖之は、青蓮院宮家に仕えていた並河家の養子となり、青蓮院宮家の当時の当主・久邇宮朝彦親王に近侍として仕えていた。糊口をしのぐために、種々、事業を行うが失敗し、明治6年ごろから七宝制作を始めたという。その後、内国勧業博覧会や万博を舞台に活躍した。
冒頭のボンボニエールは、底部に「並河」とも読める刻印があり、並河靖之の作である可能性がある。
昭和4年(1929年)10月7日に、昭和天皇第3皇女・孝宮和子内親王の命名祝宴が開かれた。その際のボンボニエールは、文庫形菊葉文。七宝の美しいボンボニエールである。このボンボニエールには、菊葉文描写技巧が異なる2種類があることが確認されている。一つは有線七宝で、もう一つは盛上七宝である。盛上七宝は、研磨の過程において、さらに釉薬を重ねることで、立体的な表現を得る技法。
二つの業者に発注したことでこの差異があるのか、または、渡す相手により差をつけたのか。これまでの例を考えると、後者のような気がするが、真相は不明である。
七宝は、ガラス釉のきらめく様子、折り重なる色彩の深みで、見る人の心を捉えてしまう。私も捉えられた一人である。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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