2020.5.15
さて、前回の問題。この複葉機形ボンボニエールはどの部分が開くのでしょうか。正解は上の画像の通り。プロペラ部分がとれ、そこに菓子が入るようになっているのであった。しかし、プロペラが取り付けてある機首の部分の直径は1センチにも満たない。ここに入る菓子はかなり限定される。それは何だったのだろうか。
ボンボニエールは明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布式で下賜されたことが、その公式な始まりである。その後、明治27年(1894年)の明治天皇・皇后の大婚25年祝典(銀婚式)の際に、皇室オリジナルデザインのボンボニエールが下賜された。【→「ボンボニエールの物語vol.2」明治22年 ボンボニエール最初の物語】
この皇室最初のオリジナルデザインのボンボニエールは菓子器ゆえ、当然菓子が入っていたのだが、それがどのようなものであったかが、当時の記録より判明している。記録には「菓子は小粒の五色豆の如きを入れたり」と記されており、小さめの5色の豆に似たものが入っていたという。確証はないけれど、これはおそらく金平糖であったと思う。なぜなら、現在の皇室のボンボニエールに、5色の小粒の金平糖が入っているから。皇室は一度決めたことをなかなか変えない。それが1200年続く伝統なのである。
金平糖は、戦国時代にポルトガルより渡来した。永禄12年(1569年)に宣教師のルイス・フロイスが京都の二条城において織田信長に謁見した際に、献上品としてフラスコ入りの金平糖が差し出されたという記録がある。綾瀬はるかさん主演の映画「本能寺ホテル」では、金平糖を食べると戦国時代にタイムスリップし、信長に会えるという場面が登場するが、この記録をヒントにしているのだろう。
江戸時代後期には贈答用菓子として庶民にも普及した。「明治天皇紀」には、金平糖を病気見舞いに贈った、臣下に下賜したなどの記述を見ることができ、明治皇室では、金平糖を多く用いたことがわかる。
伝統的な製造法で金平糖を作り続けている京都の緑寿庵清水によれば、皇室のボンボニエールに入れられている金平糖は、一般に売られているものより小粒のものを用いているとのことである。これなら2、3粒くらいは複葉機に入るのかもしれない。
皇室の伝統は金平糖と言いながら、実はボンボニエールに入れられた菓子は、他にもあった。大正10年(1921年)に東京市が皇太子帰朝記念奉祝会を催した際のボンボニエールには「ミンツ(菓子)」を入れたという記録があり、また他の慶事の際にはチョコレートを用いた記録も残っている。昭和46年(1971年)の昭和天皇御訪欧記念のボンボニエールには干菓子が入れられていた。
和船形ボンボニエールの方は、おおむね予想通りの開き方だったのではないだろうか。こちらには菓子はたっぷりと入りそうである。
この船は弁才船と呼ばれる、江戸時代に国内海運に広く使われていた大型木造帆船を模していると思われる。1000石を超える米穀を積むこともできたことから、千石船とも呼ばれる。北前船や菱垣廻船など教科書で読んだことがあるような、ないような、あの船も、この形であった。
このボンボニエールはいつ、どの祝宴で配られたかはわかっていない。その理由はまたいずれ詳しくお話ししたいと思う。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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