美術史という学問が魅力的で感動的なのは、一つには、作家たちの生涯や着想、個性に触れられることにある。しかし、何世紀も前に、遠く離れたところに存在した作家となると、そうすることが難しいこともある。ただ、私たちにもっと近い時代の作家であれば、その生きざまを知る手がかりとなる実話や確かな証拠、あるいは逸話といったものにふんだんに触れることができる。 審美眼を持つ陶芸家であり、収集家、古物商、美食家、レストラン経営者でもあった20世紀の芸術家、北大路魯山人(1883-1959年)がその一例だ。
私は日本を度々訪れ、方々の美術館を見ているうちに、魯山人がいかに非凡の人生を送っていたかが、少しずつ分かってきた。1883年に京都に生まれ、困窮の中で育ったが、芸術的な才能は早くから芽生えていたらしい。20歳で上京し、学業を修めると、書道を教え始めたという。2 年間滞在した朝鮮半島で篆刻を学ぶと、帰国後は数多くの芸術家たちのために印章を彫った。金沢ではしばらくの間、陶芸を学んだが、老舗の料亭で料理も学んだ。
魯山人は1919年、都内で古美術店を営み始めたが、1年後には、自ら収集した陶磁器を使って店の 2 階で料理を提供し始め、これが好評を博した。やがて、東京の食通に好まれる「美食倶楽部」を設立すると、料亭を開いた。東京近郊の鎌倉でしばらく暮らした魯山人はそこに窯を開き、陶芸展も開くようになった。
51年には、 作品がフランスで展示され、海外でも注目を集めるようになった。54年には 71 歳になっていたが、米欧を歴訪し、ニューヨーク近代美術館(MoMA)では「魯山人展」が開かれた。ピカソを訪れたのも渡欧の折だった(世界的に名をはせていたパリのレストラン「トゥールダルジャン」で、料理の仕方に注文を付けたのも)。
魯山人は人間国宝を辞退し、59年に死去した。彼の生涯はこうだったと、一言で説明することできない。芸術的な関心が多岐にわたったからだ。その時々の心境を映し出していたのか、彼は号をしばしば変えた。芸術や料理について実に多くのことを書き残し、歯に衣を着せないことや風変わりなことでも知られた。
私は、魯山人が古い時代の日本美術に引かれていたことに心を打たれる。彼は骨董から様々な着想を得ていたし、私の大好きな江戸期の陶工、尾形乾山(1663-1743年)のものを含め、生涯をかけてあまたの作品を収集した。
陶芸家としての魯山人の作品は、備前、九谷、志野、信楽、織部といった陶磁器の伝統的な様式に倣った。陶器を作る時は、彼の洗練された料理を載せるに値する完璧な食器を目指したという。「器は料理の着物」とは、魯山人の言葉だ。
魯山人は作品を量産した。熱心な後援者や収集家たちがそれらを買い集め、今も多くの作品が米国などの公的な、あるいは民間のコレクションに収まっている。
日本では、京都国立近代美術館や世田谷美術館(東京)が彼の作品を所蔵している。足立美術館(島根県安来市)は、魯山人の芸術を鑑賞するのに、おあつらえ向きだ。一度見たら忘れがたい庭園が知られる美術館だが、魯山人作品のコレクションが約400点に及ぶことも知っておいていい。
足立美術館は2020年春、開館50周年を記念し、「魯山人館」をオープンする。彼の作品を一度に約120点も見られる新しい空間がそこに生まれるという。魯山人の独創的な世界にのめり込むには打って付けだ。新しい展示館を訪れるのが楽しみだ。
プロフィール
美術史家
ソフィー・リチャード
仏プロヴァンス生まれ。エコール・ド・ルーヴル、パリ大学ソルボンヌ校で教育を受け、ニューヨークの美術界を経て、現在住むロンドンに移った。この15年間は度々訪日している。日本の美術と文化に熱心なあまり、日本各地の美術館を探索するようになり、これまでに訪れた美術館は全国で200か所近くを数える。日本の美術館について執筆した記事は、英国、米国、日本で読まれた。2014年に最初の著書が出版され、その後、邦訳「フランス人がときめいた日本の美術館」(集英社インターナショナル)も出版された。この本をもとにした同名のテレビ番組はBS11、TOKYOMX で放送。新著 The Art Lover’s Guide to Japanese Museums(増補新版・美術愛好家のための日本の美術館ガイド)は2019年7月刊行。2015年には、日本文化を広く伝えた功績をたたえられ、文化庁長官表彰を受けた。(写真©Frederic Aranda)
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