2020年3月の国立劇場歌舞伎公演の「義経千本桜」は、主演の尾上菊之助さんが強い思い入れを持って作り上げてきた。新型コロナウイルスの感染拡大防止のために中止となったが、国立劇場が無観客で撮影し、公式YouTubeチャンネルに3回に分けて配信したところ、視聴回数が合計で30万回に迫るなど、大きな反響を呼んでいる。
「ここまで見ていただけるとは思わなかった。初めて歌舞伎をご覧になる方もおられて、うれしい限りです」と語るのは、歌舞伎を担当する日本芸術文化振興会理事の大和田文雄さんだ。舞台制作にも関わる大和田さんに、公演の見どころや配信へのいきさつを語ってもらった。
義経千本桜は、「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」と並ぶ義太夫狂言 (人形浄瑠璃文楽から歌舞伎に取り入れた作品) の三大名作の一つで、源平の合戦後、兄の源頼朝に追われることとなった悲運の武将・義経の流転に、滅んだはずの平家一門の武将が密かに生き延びたという設定で再び義経一行に絡むという、壮大なストーリー。今回の公演では、全五段のうち、特に人気がある二~四段目の三つの物語を、3回のプログラム(Aプロ、Bプロ、Cプロ)に分けて上演する予定だった。
タイトルロールに義経の名前があるが、「義経千本桜」の主人公は、実は義経ではない。各段の主役はそれぞれ、二段目は義経に恨みを持つ平家の武将(平知盛)、三段目は悪党の町人(いがみの権太)、四段目にいたっては人間ですらなく、義経の忠臣に化けたキツネ(源九郎狐)だ。
武士と町人、人間と動物では、衣裳も言葉遣いも立ち居振る舞いも、厳密に切り分けるのが歌舞伎の特徴。「身分だけでなく性格もがらりと変わる3人を、立ち回りや早替わりといったダイナミックな演出をこなしながら、菊之助さん一人が演じ分けるのが最大の見どころです」と大和田さんは言う。
この「三役」を演じるのは、歌舞伎俳優にとって憧れなのだという。「以前、この三役は『立ち役(男性の役)の卒業論文』と言われていました。集大成のようなものだと。国立劇場では、1976年に二代目尾上松緑さんが2か月連続でこの三役をつとめられました。2001年には主演の(十二代目市川)團十郎さん自ら、(松緑さんのように)『三役を一度にやってみたい』と希望され、今回も1年ほど前に菊之助さんとお話しした時に、『三役をやってみたい』と自分からおっしゃいました」
記者会見で「この三役を演じるのが本当に夢でした」と語り、父親の尾上菊五郎さん、義父の中村吉右衛門さん、2人の人間国宝から教えを受けて、準備を重ねてきたという菊之助さん。だが、新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、公演日程は延期され、3月17日には中止が発表された。
「延期が決まってからもお稽古は続けていて、感染リスクを下げるために劇場の扉を開けてやるなど換気に気を配っていました。中止を決めたときはちょうど稽古中で、菊之助さんに直接伝えました。菊之助さんは『しょうがありませんね』と覚悟をしておられた様子でした」
国立劇場は毎公演、記録用として動画を撮影しており、偶然、撮影予定日は数日先だった。「関係者から一回でもやりたい、という声もあり、収録スタッフの予定もおさえていた。それなら、撮影をして、ネットなどで配信できないかと思ったんです」。人々の命や健康を守るために、公演の中止はやむをえない。だが、ただ公演をただやめるのではなく、代わりに国立劇場として何ができるのか。理事長をはじめ皆で検討し、菊之助さんの「やりましょう」の一言で、実現に向けて動き出したのだという。
撮影は3台のカメラを使い、各プログラムごとにテストと本番の2回、3日間にわたって行われた。普段、記録用の動画では舞台全体を撮ることが多いが、今回は視聴者を意識して、俳優のアップのカットも多く撮影した。小さな劇場のため、カメラへ映り込まないようにと、制作スタッフは全員、廊下に出てモニターを見守ったため、客席は空っぽの状態だった。この時の舞台について、菊之助さんは、「カメラの向こうにお客様がいらっしゃることを思い描きながら、精いっぱい演じました」とコメントしている。
大和田さんは、終演後の菊之助さんの様子に驚いたという。「非常に疲れておられたんです。心配で声をかけたら、『お客様がいらっしゃったら全然違うのですが』と。客席の声援や息づかいの感覚といった反応が俳優を助けると言いますか、自分たちだけでテンションを高めて、演じ続けるのは精神的にも肉体的にも大変だったことでしょう」とおもんばかった。
配信用の映像を作るにあたって念頭に置いたのは、観劇に来られなかった歌舞伎ファンだけでなく、初めて歌舞伎に触れる人にも気軽に楽しんでもらうということ。3時間近い上映時間だが、見やすいようにと編集し、それぞれを2時間以内に抑えた。「YouTubeなのだから早送りして見ればいいという考え方もあるかもしれませんが、初心者の方はどのシーンを飛ばして見ればいいかはわからないと考えました。カットしてしまった部分の出演者には申し訳ないですが、菊之助さんからもご意見をうかがいながら、ストーリーを十分に理解いただけるよう工夫しました」と大和田さんは振り返る。
配信にあたり、俳優の肖像権などを管理する日本俳優協会とも話し合った。期せずして、松竹も中止した公演の配信を行う準備をしていることがわかり、「こういう時だからこそ、お客様のために、歌舞伎のために」と話が進んだという。
国立劇場が、歌舞伎公演の記録映像をネット上で配信するのは初めて。当初の公式チャンネルの登録者数が4000程度だったので、「そのくらいかと思っていた」が、ふたを開けると視聴数は3本で20万を超え、登録者数も3倍以上になった。「想定以上の反響で驚きました。歌舞伎を初めて見た、こういう機会に見られてよかった、という声をたくさんいただき、うれしかったです」と大和田さん。
「公演事業なので、生の舞台を見ていただくというのが最終的な目標。でも、今はいろいろなエンターテインメントがあり、伝統芸能がこれから100年、200年と受け継がれていくには、今の時代に沿った、様々な手段を模索する必要があると思います。インターネット配信もその一つで、今後も可能性を探っていきたい」と話す。文楽など、ほかの芸能の配信も始めている。
映像ならではの楽しみ方は何だろうか。「菊之助さんをはじめ、出演者の動きや声、セリフをじっくりと味わうことができると思います。わからなければ巻き戻すこともできる。ストーリーを楽しむだけでなく、衣裳や小道具に注目して見る、など思い思いの見方で何度でも楽しめます」と大和田さんは勧める。
国立劇場のホームページには、義経千本桜のあらすじや解説を掲載しているほか、公演パンフレットの通販も始めており、ストーリーや解説を見比べながら、映像を見ることが可能だ。パソコンやスマホだけでなく、インターネットに接続したテレビなどでも視聴でき、家の中で様々なスタイルで楽しむことができる。着物を着て見たり、劇場の大向こうさながらに「音羽屋!」などの掛け声をかけてみたり。趣向をこらし、劇場での観劇を疑似体験して視聴するのもいかがだろう。
大和田さんによる、各プログラムの見どころを3回に分けて紹介する。
【歌舞伎 義経千本桜 vol.2】制作者が見どころを徹底解説! Aプロ鳥居前・渡海屋・大物浦
【歌舞伎 義経千本桜 vol.3】制作者が見どころを徹底解説! Bプロ椎の木・小金吾討死・鮓屋
【歌舞伎 義経千本桜 vol.4】制作者が見どころを徹底解説! Cプロ道行初音旅・河連法眼館
(読売新聞紡ぐプロジェクト事務局 沢野未来)
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