歌舞伎役者にとって、当たり役との出会いは、役者人生を左右するほど大きな意味を持つ。生涯演じ続ける人もいれば、ある時点で「一世一代」と銘打ち、封印する人もいる。
人間国宝の片岡仁左衛門は1964年、孝夫を名乗っていた20歳の時に「女殺油地獄」の主人公・与兵衛を演じて、出世作となった。
近松門左衛門の作品中、衝動殺人が題材の異色作は、現代劇に通じるリアリティーに貫かれている。斬新過ぎたためか、江戸の初演以来長く上演が途絶えていたが、明治期に上方の役者・二代目実川延若が歌舞伎で復活させた。
その長男・三代目延若に仁左衛門は教わった。後に「主人公と同年代の役者の『生』の演技が新鮮でリアルだったから好評をいただいた。芸の力ではない」と振り返っている。
作品の本質を見抜いた慧眼だろう。上演の度に解釈を深め、上方の和事味を加えるなどの工夫を凝らして11公演、重ねてきたが、「この役は若さに勝るものはない」との境地に至り、2009年、脂の乗りきった65歳で演じ納めた。
今月〔2024年3月〕、京都・南座では、30歳の伸び盛りの中村隼人が、仁左衛門に教えを請い、監修下で、この役に初挑戦している。
すらりと伸びた手足、端正な隼人の容姿は、若き日の仁左衛門をほうふつとさせる。親に勘当され、借金に困り果て、とぼとぼと花道を歩む姿には愛嬌もにじみ、甘えん坊で見えっぱりの、どこにでもいそうな青年を等身大の「生」の演技で見せた。
与兵衛が凡庸であればあるほど終盤、残忍な殺人者に変貌する急展開に驚きと恐怖が広がる。油屋仲間の妻・お吉(中村壱太郎)を執拗に刺し殺す場面には、歌舞伎の様式美、嗜虐美が生かされた。
80歳を迎える大看板の仁左衛門から、50歳年下の隼人へ。上方を代表する役者から東京の花形へ。ベテランは惜しみなく与え、若手は吸収してさらに磨く。綿々と続く努力によって伝統の灯は守られていく。
(編集委員 坂成美保)
◇三月花形歌舞伎
〔2024年3月〕24日まで、京都・南座。演目・配役は松プロと桜プロの2種類。松プロは尾上右近が初役で治兵衛を勤める「河庄」と壱太郎、隼人による「将門」。桜プロは「女殺油地獄」と壱太郎、右近の「将門」。
治兵衛に挑戦する右近は「熱演、力演だけではなく、内面的なもの、脚本への理解や愛情を大切に勤める」と目標を掲げ、壱太郎は「将門」について「近松の濃いドラマの後なので派手なスペクタクルを見せたい」と意気込みを語る。(電)0570・000・489。
(2024年3月13日付 読売新聞夕刊より)
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