能楽師は幼少より「魂が宿る装束(衣装)を跨いではならない」としつけられる。複雑な文様が織り込まれた華麗な装束は、登場人物の品格を象徴し、能楽の精神性をも支えてきた。京都・西陣に120年間、能装束を専門に作り続けてきた家がある。佐々木家4代目当主で、文化庁の選定保存技術保持者の佐々木洋次さん(67)を訪ねた。(大阪編集委員 坂成美保)
カタン、カタン……。織機の音がリズミカルに刻まれ、みるみるうちに花や蝶の文様が浮かび上がる。7台のジャカード機(織機)が並ぶ工場で、6人の職人が無心に手を動かしている。動力を使わない手動の木製織機は、今では珍しいという。
佐々木さんは、明治創業の能装束製作の老舗に長男として生まれ、6歳から能楽師の下で、謡や仕舞を学んだ。能の詞章に親しんだ経験は、職人になってから役立った。「この演目のこの役」。注文を受けた際に、即座に役やストーリーが浮かび、装束の色彩や文様をイメージできる。
能・狂言各流派の家元や人間国宝ら著名な能楽師から注文を受け、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんの衣装も手がけた。
数多くの工程を経るため、分業が進む織物業界だが、図案設計から、糸染め、経糸の準備をする「整経」、織り、裁断・仕立てまでの作業を、すべて自ら管理する。受注から完成までに半年前後。お披露目の舞台は、装束の完成度を確かめる時間でもある。
「もっとこうすればよかったと反省ばかりで、満足することはめったにありません。根気よく繰り返すなかで完成度は高まりますが、年齢とともに視力や体力、集中力は衰える。年を重ねても、せめて感性だけは磨き続けたいですね」
高度な技法を「後進に伝え残さなければ」との思いから、2022年には、製作過程や伝承の技術、装束の分類をまとめた著書「能装束精解 製作の現場から」(檜書店)を刊行した。
近年特に力を注いでいるのは、江戸期の装束の複製だ。劣化が進み、実際に着用することができない装束のレプリカを作る。昨年は、国立能楽堂が所蔵する加賀藩前田家伝来の「白地御簾牡丹折枝模様縫箔」の複製を手がけた。
白地の繻子に、金銀の箔を施し、中国で最も高貴な花とされる牡丹を刺繍した優美な装束。現物を詳細に観察し、最も近い発色を求めて絹糸を染め上げていく。作業を通じて、当時の職人のデザイン力に何度も感嘆した。
「恐らくは『羽衣』など若い女性の役に使われた装束。現物は着用に堪えられないが、複製品は能楽師が袖を通し舞台にかけることもできる。モノを残せば、未来の職人がモノから学び取ることができます」。丹精込めた装束を、舞手がまとい、能舞台に映える日を心待ちにしている。
◇ささき・ようじ 1956年、京都市生まれ。1897年(明治30年)に京都・西陣で創業した佐々木能衣装に入社し、父・洋一さんに師事。1994年に社長に就任。2020年に文化庁が「能装束製作」の選定保存技術保持者に認定した。昨年、保存団体として追加認定された「能装束製作技術保存会」の代表も務める。
(2024年6月26日付 読売新聞朝刊より)
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