幽霊、怨霊、狐狸妖怪……「この世のものではない」ものたちが、舞台上に
『豊志賀の死』は、江戸末期から明治期にかけて活躍した東京落語中興の祖・三遊亭円朝の長編怪談噺『真景累ヶ淵』の中で、最も有名な場面の舞台化だ。
根津七軒町。豊志賀は美人だが「堅い」で知られた
富本節 の師匠だったが、ふとしたことから弟子の新吉と深い仲になった。「堅い」師匠に「若い」彼氏ができたことで、弟子は減り、お座敷仕事もなくなってしまうが、小間物屋の娘、お久だけは熱心に稽古に通っていた。
豊志賀は39歳、新吉は21歳。20歳近くも年の離れたカップル。ただでもそれを気にしているところに、18歳、ちょっと笑うとえくぼができるお久が現れた。豊志賀の心の中に、「ひょっとして……」との邪心がわき、嫉妬の炎が燃え始める。右眼の下にポツリポツリとおかしな腫物ができ、それがだんだん大きくなって……熱を帯び、痛みが烈しくなり、ついには寝込んでしまい……豊志賀の病が重くなったところから、芝居の幕が上がる。
「祖父(七代目中村芝翫)と叔父(九代目中村福助)が演じていて、僕自身、お久で舞台に出てますから、なじみ深い役ではありますね」
こう話すのは、今回、初役で豊志賀を演じる中村七之助さんだ。
「父(十八代目中村勘三郎)も兄(六代目中村勘九郎)も新吉を演じていますしね。ただ、自分がこの役をこのタイミングで演じるとは思っていませんでした。僕は今38歳、(豊志賀を演じるのは)もう少し年がいかないと、と思っていましたから。でも、意外とすんなりできましたね」
現代の女性の皆さんには失礼な表現であることをお許し願いたい。今よりも平均寿命が短かった江戸時代の、数え年で30歳を超えれば女性は「大年増」と呼ばれたものだった。そう考えると、豊志賀は大年増の中でも大年増。今でいえば「美魔女」ともいうべき存在なのである。円朝の口演によると、新吉は「ちょっと小柄だが愛嬌のある」ジャニーズ系の若者。ライバルは18歳の「カワイイ系」。「美魔女」は「ジャニーズ系」を何とか引き止めたい。そういう気持ちをどう出すか。
「(基本的な役作りに付いては)今回、福助の叔父にお願いして見てもらいました。(豊志賀が新吉に)甘えたり怒ったりするところは『はっきりさせた方がいいよ』と言われました。(豊志賀と新吉の関係は)こんな状況にならなかったらもっとうまく行ったかもしれない。こうなってしまったために卑屈になってしまっている部分だったり、お久に嫉妬の心を向けてみたり、前半、そういう感情はもっともっと出せるようにしたいですね」
床に付いてしまった豊志賀。新吉には「いっそ自分が早く死ねば、お久と一緒になれるだろう」と絡み、見舞いに来たお久には嫌味をいう。耐えかねた新吉は豊志賀が寝ている間に家を抜け出すのだが、目が覚めた豊志賀は新吉を探して濡れ縁にはい出す。
家を出た新吉はお久と会い、すし屋の2階で今後のことを話す。「いっそ二人で下総羽生村のお久の伯父の所へ行こうか」と。その時、燭台が消え、暗闇の中で聞こえてきたのは恨み言をいう豊志賀の声。驚いた新吉は、お久を置いて飛び出す。
新吉が転がり込んだのは、下谷池之端の近く大門町にある伯父・勘蔵の家。「もう師匠のもとにはいられない」という新吉に、「豊志賀の恩を忘れてはいけない」と諭す勘蔵。そして、「今、ここに豊志賀が来ている」と言い……。
勘蔵の家に来た豊志賀と、勘蔵と新吉は会話をする。果たして彼女は生きている人間なのか、幽霊なのか。その時点では観客にはわからない。そのあたりの表現が難しそうだ。
「福助の叔父にも言われました。もちろん幽霊っぽく芝居をするんですけども、『もう少し(人間っぽく)感情を出してもいいよ』って。そういう意味ではなかなかこういうのはない、面白い役だな、と思っています」と七之助さんは話す。
「今後は姉弟と思って付き合いたい」「好きな人がいれば結婚してもいい」など、嫉妬と嫌味全開の前半とは打って変わって、豊志賀はとうとうと語りだす。
「『こんな病を引き受けちまって』というセリフだけは、下からぐーっと(幽霊っぽい芝居を)しますが、その他は、普通にしゃべっています。もっとも途中、勘蔵が駕籠を呼ぶために家から出て行った後は、生気をなくして怖い雰囲気をだそうとしてますが」
なんだかふっとそこにいるような感じを出す。足を見せないように「ちょこちょこちょこちょこ歩く」。微妙に生身の人間とは違う感じを出すことが必要だ。
そもそも幽霊の役には、「何かわからないけど、自信がある」のだそうだ。「生気がない感じを出すのがうまいんですかね。久里子の伯母(父・十八代目勘三郎の姉で女優の波乃久里子さん)にも『あんた幽霊うまいね』って言われるんですよ」
豊志賀の顔の腫物は、「メイクで描いてもいいし、別に作ったものを顔に付ける『差し込み』でもいい」のだが、「ちょうど福助の叔父が作ったものがあって、それが奇跡的に自分の顔に合った」ので、今回の舞台ではそれを使っている。
現在上演されている『豊志賀の死』は1922年の市村座で、二世竹柴金作が脚色したものを、六代目尾上梅幸の豊志賀、六代目尾上菊五郎の新吉で演じたものが基になっている。
「落語がもとになっているものだから、口調とかせりふ回しとか、なるべくそういう雰囲気を生かそうとは思っています」と七之助さん。江戸時代からの世話物や時代物と違って、「そんなにかっちりと型が決まっているわけではない」とも。「僕がやっているのは、祖父と叔父、二人の芝居をミックスしたような感じです。怪談といっても、ずっとお客さんを緊張させていればいいというものではない。どこかでふっと抜くようなところも必要。そういう緩急も意識しています」
タイトルにあるのは豊志賀の名前だが、実際に芝居を動かすのは中村鶴松さんの演じる新吉。11歳で十八代目勘三郎の門下に入った鶴松さんは26歳で、七之助さんにとっては弟のような存在だ。「今回、実質的な主役を任されて鶴松も『死ぬほど緊張する』と言ってますが、今後さらに大きな役を演じるためにもいい経験になると思っています」という。
「鶴松とのキャッチボールがうまくはまれば、豊志賀と新吉の関係がうまく出せると思います。幕が開いて徐々にコンビネーションもよくなってきましたし、これからもっと良くなってきますよ」
「八月花形歌舞伎」は28日まで。『豊志賀の死』はこのほか、お久役で福助さんの長男、中村児太郎さん、勘蔵役で中村扇雀さん、噺家さん蝶役で中村勘九郎さんが出演。
(読売新聞事業局 専門委員・田中聡)
0%