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2024.6.24

【歌舞伎座インタビュー】「『萬壽』という年号は、十干十二支の最初に当たる『甲子』の年から始まったんです。『いの一番』という想いも込めているんですよ」――「六月大歌舞伎」で、親子孫三代の襲名披露・初舞台に臨んでいる中村萬壽さん

〔2024年〕6月24日まで東京・東銀座の歌舞伎座で行われている「六月大歌舞伎」。何と言っても話題は、「萬屋よろずや」の襲名披露・初舞台だ。五代目時蔵さんが初代中村萬壽まんじゅとなり、萬壽さんの長男、四代目梅枝さんが六代目中村時蔵、新・時蔵さんの長男の小川大晴さんが五代目中村梅枝を襲名する。同じ萬屋一門の中村獅童さんの息子2人も初舞台を踏む今興行、どんな想いで臨んでいるのか。萬壽さんに心境を聞いた。 (聞き手は事業局専門委員・田中聡)

令和6年6月歌舞伎座『妹背山婦女庭訓』烏帽子折求女実は藤原淡海=中村萬壽(©松竹)

――親子孫三代の襲名披露・初舞台が幕を開けました。中村獅童さんの息子さん2人の初舞台も行われ、とても華やかで賑やかな舞台が繰り広げられています。「萬屋」の中でも「時蔵」は大きな名前。どんなお考えで、今回の襲名を決められたのでしょうか。

萬壽 もともと孫の初舞台をどうしようか、というところから始まっているんですよ。少し年上に(十三代目市川)團十郎さんの長男の勸玄くん(現・八代目市川新之助)がいるのですが、團十郎襲名披露・新之助初舞台もコロナ禍で延期になってしまって・・・・・・。

――そういう事情があったんですね。

萬壽 それで今年まで初舞台がずれたのですが、どうせなら「梅枝」の名前からスタートしてもらいたいな、と思っていました。私も、私の父(四世時蔵)、息子も、この名前から始めていますから。それで梅枝に時蔵を継いでもらって、隠居名ではないですが、新しい名前を自分が名乗ろうと思ったんです。父は「時蔵」になる前に京屋さんのところから、「芝雀」の名前をお借りしていたのですが、短期間で名前をお返しすることになった。よその家の名前をそのように使わせていただくのも申し訳ないので、息子に「時蔵」を譲って、新しく名前を創ろうとも考えました。

――萬壽というのは、どういうところからお考えになったんですか? われわれ庶民からすると、日本酒の名前でなじみがあるんですが(笑)

萬壽 そうおっしゃる方もいらっしゃいますね(笑)。うちの屋号は「萬屋」ですから、「萬」の文字はどうしても使いたかった。(叔父に当たる)萬屋錦之介もわざわざ使ってくれていた一字ですし、「萬壽」というのは、年号にもあるんですよ。西暦で言うと1024年から始まるのですが、この年が「十干十二支」のスタートとなる「甲子」の年です。それにちなんで「いの一番」という意味も込めています。

「甲子」の年は、「天命が改まる」年で「変乱が多い」年だとされており、昔から年号を変えることが一般的だった。ちなみに「甲子園球場」は1924年の「甲子の年」に作られたものである。「中村時蔵」の名跡は、「傾城歌六」と言われた名女方・初世中村歌六(1779~1859)から続くもので、初世歌六の三男(後に三世歌六)が最初に名乗った。三世歌六の次男、三世時蔵(1895~1959)は太平洋戦争後の歌舞伎界を代表する女方のひとりで、そこから「時蔵」は女方の大名跡として定着している。三世時蔵の実兄は初代中村吉右衛門、異母弟が十七世中村勘三郎。三世時蔵の長男が現・歌六、又五郎兄弟の父親の二世中村歌昇。次男が萬壽さんの父親の四世時蔵、三男が現・獅童の父親の初世中村獅童、四男の萬屋錦之介、五男の中村嘉葎雄は映画スターとなった。

――襲名披露は、歌舞伎座の「六月大歌舞伎」と松竹座の「七月大歌舞伎」で行われるんですね。歌舞伎座では、昼の部の『妹背山婦女庭訓 三笠御殿』が息子さんの襲名披露狂言、夜の部の『山姥』が萬壽さんの襲名披露狂言です。

萬壽 父も私も『御殿』のお三輪を襲名披露の時に勤めています。成駒屋のおじさん(六世中村歌右衛門)からどういうお役かはしっかり教わっていますので、それを息子にも教えています。お三輪は一途な田舎娘、とはいっても、裾を引いていますし、それなりの家の娘として育っている。新・時蔵は芝居がストレートなので「もう少し、柔らかく」とアドバイスしています。私自身はお三輪が恋い焦がれる求女。勉強会の「杉の子会」で勤めて以来です。二枚目でありながら策士でもある。二面性が必要です。

令和6年6月歌舞伎座『妹背山婦女庭訓』烏帽子折求女実は藤原淡海=中村萬壽(©松竹)

――入鹿の屋敷にやって来たお三輪が、官女たちになぶられる所も、この芝居では大きな見せ場ですね。

萬壽 あそこは、お三輪は受け身ですから、官女の皆さんについていけばいい場面。今回は「いじめの官女」全員が三代目時蔵から続く「小川家」のメンバーです。あまり、この役を勤めたことのない役者もいますから、不慣れなところもあるかもしれませんが、ちょっとした「お楽しみ」になればと思います。

――萬壽さんご本人の襲名披露狂言は夜の部の『山姥』。平成7(1995)年に三越劇場での舞踊会で、新・時蔵さんを怪童丸としておやりになったそうですが、今回は孫の新・梅枝さんとの共演。

萬壽 その時のことも頭にあっての選択です。やっぱり「時蔵」という名前は萬屋にとっては大事な名前ですから、新・時蔵に『御殿』で頑張ってもらって、私は孫の面倒を見ていようかなという(笑)。新・梅枝は、三味線もしっかり聞けますし、踊りも芝居も好きなようで。楽しく舞台を勤めてもらえれば。

――山姥といえば、代々の時蔵さんの「家の芸」として『八重桐廓噺 嫗山姥』という狂言がありますよね。七月の松竹座では、夜の部で新・時蔵さんがそれを襲名披露狂言として勤めることも決まっています。

萬壽 「しゃべり」という独特のテクニックを使う芝居で、父と祖父は、この狂言を時蔵襲名の時に演じています。私は、時蔵襲名が26歳で、この芝居をするにはまだ若かったので、後になって勤めさせていただきました。昼の部の『恋女房染分手綱 重の井』が私の松竹座での襲名披露狂言です。

――『重の井子分かれ』ですね

萬壽 三吉という子役が活躍する芝居なので、新・梅枝にぜひともこの役をやってもらいたかった。子役の時、私はこの狂言の「いやじゃ姫」をやらせてもらったことがあって、その時に(尾上)梅幸のおじさんに、とても優しくしていただいた。だから、私は重の井というお役は、梅幸のおじさんから教わったんです。本来ならばうちの家系からいうと、成駒屋のおじさん(六世歌右衛門)に教わるのが自然なんですけどね。そんな思い出もあります。

――親子孫、三代の襲名披露・初舞台は、やはり歌舞伎ならではの歴史を感じます 。

萬壽 私が時蔵を襲名した時は、北條秀司先生や村上元三先生など、重鎮の先生方がお元気で、挨拶に行くのにも緊張することが多かった。今、歌舞伎界と文壇、美術界などでそこまで深い付き合いのある先生はあまりいないんですね。そういうところに時代の流れとともに、一抹の寂しさも感じますが、私が元気なうちに時蔵という名前を引き継ぐことができて良かったです 。

歌舞伎座「六月大歌舞伎」の公式サイトはこちら https://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/play/873

大阪松竹座「七月大歌舞伎」の公式サイトはこちら https://www.kabuki-bito.jp/theaters/osaka/play/887

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