狂言師・野村萬斎さんが語る、「withコロナ」の時代に生きる能楽師の姿。後半では、能楽師ならではのユニークな視点について語ってもらった。これからの時代を生き抜くヒントにもなりそうだ。
―世界にある様々な舞台芸術と比べて、能は何が違いますか
演劇文化は死なないといいながら、古代ギリシャ演劇は死んだと言われることがあります。なぜかというと、戯曲、台本は残っていても演出がわからなくなっているからです。西洋では今も、たとえばシェークスピアの同じ戯曲でも、毎回演出を変えますね。でも、能楽は、演出を変えない。まぁ、全く変えないわけではないんですけどね。時代に反応しているから生き残っているわけなんですが、演出も含めて、ある様式性を、伝統を受け継いでいるとは言えまして、それがまれにみる芸能、あるいは世界最古だと言われる由縁だと思います。
テキストを大事にしながら、様式性も時代と呼吸してきたから、今も残っている。淘汰されかねないという非常に厳しい荒波の中で、これからも生き残っていくヒントが、能楽から垣間見えるのであれば、この時代に能楽を見る意義があるのではないかと。そうあったらいいな、と思います。
―「withコロナ」あるいは「アフターコロナ」と言われる時代に、能はどう発展してほしいと思いますか
コロナウイルスの影響で、現代劇は大変な混乱の中にありました。しかし僕らはこれまでも、毎日、毎年、能は今日も大丈夫だったか、狂言は大丈夫だったか、と考え続けてきました。現代劇は、今生きていることへの発露があるわけですが、そういう意味では、僕らは少し高齢者なんです。「明日は死んでしまうかもしれない」という覚悟をもって、やっています。今までは生き残ってきたが、淘汰されるかもしれない。その覚悟がある。
能楽は中世の芸能です。現代は個人というものが尊重されてしかるべき時代ですが、能楽には人間は一人では生きていけない、あるいは、我々は生かされているというような発想が根底にある。中世は、神やら仏やら、そして森羅万象が、生きとし生けるものとして登場し、人間もその一部である、という概念があった。ですから、個人、あるいは自分ばかりにこだわりすぎないで、もうちょっと大きな世界があるということを、知るのもいいかなと。
僕が東京2020の開閉会式演出のチームにいたり、現代アートの方々と話したりすると、我々能楽師はいかに長いタームで物を考えている立場の人間なのか、ということに気づきます。僕は、森羅万象という言葉をよく使うんですよ。もちろん、個人として自分の恋の感情を語りたいとか、現代という一点に立ち、今が良ければ良いんだという考え方も当然だと思うんですよ。それに比べると、私たち能楽師の方がむしろ特殊なのかもしれません。とは言え、オリンピックも古代ギリシャから始まる伝統があるわけで、本来長いタームのなかで、森羅万象の一部として人間の存在を考えることが必要なのではないかと。そういう意味で、私めが五輪に関わることになったのではないかと、自分の中で見いだしているつもりです。
―刹那的にではなく、長いタームで物事を考える見方は、これからの時代ではさらに重要になってきそうです
視点をいろいろと変えていくということですね。源平の合戦で亡くなった方を取り上げて、後悔もふくめて魂の救済を永遠に謡う能がありますが、その時の心情は心情としてあるけれど、現代から見るとその行動はどうだったのか。人間は刹那刹那で行動してしまうから、同じ過ちを繰り返してしまいかねない。歴史から学ぶ大切さが伝わります。
私が出演する狂言「茸」は、屋敷の庭にキノコが生えて困るという話ですが、祈れば祈るほどキノコが暴れ出してしまう。押さえつけるのではなく、共生していく、という発想なんです。ダイバーシティーのような発想がすでに中世の能狂言の中にあったんですね。強制力を発する人は痛めつけられる、というパターンが狂言では多いです。力で封じ込めようとすると、それに対しての反発を描くことが多い。
―長いタームで物事をみる姿勢になるのは、ご自身が長い歴史を伝えていかなくてはいけない使命感を感じているからですか
僕はアイデアマン、クリエイティビティーを持っている人間でありたいと思っています。現代劇だってやります。そして、古典も時代に合わせてこうした方が面白いんじゃないか、といろんなことを考えます。でも、うまくいくこともあれば、はね返されることもある。そんな小手先の時代感なんて関係ないよ、というふうに、師匠である父に言われることもあるし、実際にやってみて、小手先だから意味ないなと気がついたりもする。700年間、だてに続いてきたものではないですよ。それは恐ろしいものだな、と。どんなにこねくりまわしても、最終的に元に戻ってしまうこともある。畏敬の念を感じてしまうほどに、洗練されています。
伝統が変わるというのは、なかなか難しい。だからこれからの能楽を考えると、教育に行き着くんです。今、ストレートプレーよりもミュージカルの方に人気が集まってきている。これは、カラオケ文化のおかげで歌うことへの共通意識があり、気持ちよく歌っているプロを見て、疑似体験のような気持ちよさを感じ、面白がっているのではないかとも考えています。スポーツと同じですね。
だから、能楽も、多くの方に体験してもらって、なじんでもらうことが重要。さらに、それは本質的な体験でないといけないんです。能楽は何を伝えようとしているのか、日本人の精神的な部分をどう文学的に、技巧的に伝えていて、それを自分でどう摂取するのか。発散することのツールである、ということもわかっていただきたい。そのためには、本質は何かを、つきつめていかないといけません。
世田谷パブリックシアターでは、現代演劇の演出家に作品を委託しつつ、僕が企画するときは、伝統あるものを現代に読み直してもらう、能楽師が読み直せないものを、現代劇の感性と身体で読み直してもらうなどしています。一方、僕自身は、シェークスピアをはじめとする近代・現代戯曲を、能や狂言の様式をふくめた技巧と発想と身体感覚でアレンジするとどうなるか、ということに挑戦しています。
僕はこれまで、映画などの現代劇に出演し、イギリスでシェークスピアの演劇についても学び、能楽とは何が違うのかをひたすら考えました。比較対象を知ることは、己の本質を知ることにもつながります。何が本質的なのか、何が重要なのかというのは、新たな企画、挑戦をしないとわからないことが多いです。
刹那的かもしれないけれど、その場その場でがんばる現代的な新しいものと、伝統がうまく対比されながらある社会で、歴史を顧みながら現代を生きる。それは、理想的なひとつの生き方なんじゃないかという気がします。
野村萬斎
公式サイト
1966年、東京都生まれ。狂言師。人間国宝の野村万作の長男。70年に「靱猿」で初舞台。国内外で多数の狂言公演に出演する一方、現代劇や映画・テレビドラマなどでも活躍。94年に文化庁芸術家在外研修制度により渡英。2002年より世田谷パブリックシアター芸術監督を務める。東京2020大会開閉会式総合統括。10・11月には東京、名古屋、京都で「ござる乃座」の公演を行う。
(聞き手 読売新聞紡ぐプロジェクト事務局 沢野未来、写真 今利幸)
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