2019.12.4

【深掘り 蝙蝠の安さん〈上〉】映画は上映前?!  新聞小説が歌舞伎になった「安さん」と戦前のチャップリン熱狂時代

チャップリンは生涯で4回来日し、歌舞伎を楽しんだ。1936年には、今回「蝙蝠の安さん」に主演する当代松本幸四郎さんの曽祖父、七代目幸四郎を訪ねた(C)Roy Export Company Ltd.

チャップリンの名作映画「街の」の舞台を江戸に置き換えた歌舞伎「蝙蝠こうもりの安さん」が、88年ぶりに東京・国立劇場で上演される。主人公は、歌舞伎の人気作「与話情よわなさけ浮名横櫛うきなのよこぐし」に出てくるキャラクター「蝙蝠安(蝙蝠の安五郎)」。脚本のベースは、昭和6年(1931年)に劇作家の木村錦花が読売新聞に連載した同名小説だが、実は当時、映画はまだ日本では上映されていなかった――。「安さん」はどのように誕生したのか。チャップリンと日本の関わりを、当時の新聞記事からたどってみよう。

チャップリンは1889年、ロンドンの劇場で芸人をしていた両親の元に生まれ、5歳から舞台に立った。芝居の腕を鍛え、巡業公演で向かったアメリカで映画会社と契約することとなり、1914年に映画デビューした。チャップリンの名前が初めて読売新聞の記事に登場するのは、大正5年(1916年)11月。「世界喜劇俳優の第一人者たるチャップリン」の新撮影の映画を「多額の権利金を投じ」て輸入し、浅草の映画館で封切ることを告知している。

最下段にある「電気街のチャップリン」の見出しの記事が、広告をのぞき、読売新聞記事としては初めての登場。左には大きな関連広告も(1916年11月19日朝刊 )

「映画デビューした直後から、すでに日本でも映画雑誌などで紹介されていました」と解説するのは、日本チャップリン協会会長の大野裕之さん。今回の歌舞伎公演で、脚本考証を担当している。「ただ、当時の日本人は『変凹へんぺこ君』、酔っ払いのまねがうまいから『アルコール先生』など、勝手にあだ名をつけて呼んでいました」

映画の公開前に小説化 さらに歌舞伎に

「街の灯」は31年1月にアメリカで公開された。放浪者である主人公が、街で出会った盲目の花売り娘に恋をし、目の治療費を稼ぐために奔走するストーリー。「時代を超えて共感できる笑いと涙、風刺……チャップリンの要素が詰まった最高傑作の一つです。貧しい中でも主人公が娘に献身的に尽くす様子は、幼い頃、貧困のあまり精神に異常をきたしてしまった母を救えなかったチャップリン自身の経験が反映されているのかもしれません」と大野さんは言う。

だが日本では映画の権利金が折り合わず、世界的にヒットしていることが報じられながら、34年まで公開を待たねばならなかった。一方、「蝙蝠の安さん」の連載が読売新聞紙上でスタートしたのは、31年7月22日、歌舞伎公演は同年8月。安さんは、本家を出し抜いた形で、世に登場したのだ。

「蝙蝠の安さん」の第1回のサブタイトルは「模造の大仏」。「浅草からもまた神田からも、お首だけ見える……と今江戸中で評判の大仏は――」と大仏開帳のシーンから始まる( 1931年7月22日朝刊 )
羽左衛門、猿之助にあらすじを聞いて

映画上演前にもかかわらず、なぜ木村は「安さん」を制作できたのだろう。

「『安さん劇』合評」と題した劇評家による対談記事(同年8月11日朝刊掲載)の中で、木村自身が「『街の灯』の筋書きというものはない。人に聞いただけ、もっとも写真(映画)は(15代市村)羽左衛門君が見た、(2代目市川)猿之助君が見た、それだけなんです(略)ごく荒い筋を聞いて、それに基づいてやったんです」と話し、人づてに聞いた情報を基に作ったことを明かしている。

「演芸」ページの頭を飾る「『安さん劇』合評」は全3回。1回目は主演の13代目守田勘彌の役作りに触れている (1931年8月11日朝刊)

蝙蝠安は、頬に蝙蝠の入れ墨をいれ、ゆすりたかりをする無頼漢だが、どこか憎めない男。大野さんによると、木村は以前からチャップリン映画のシーンを歌舞伎に取り入れるなどしていたという。「もともとファンとしてチャップリンの世界に親しんでいた木村は、 『弱っ腰でお人好しなルンペンの安は、チャーリーに似ている』と言っており、人物像が自然にフィットしたんでしょうね」と推察する。

ボクシングが相撲に――随所に“江戸要素”

「街の灯」と「蝙蝠の安さん」の共通項は多い。主人公の男が盲目の花売り娘に恋をし、治療費を稼ぐために奔走する。酔っ払っている時にだけ男のことを覚えている滑稽な富豪が出てきて、男の人生を翻弄ほんろうするのも同じだ。

一方、「街の灯」が銅像の除幕式から始まるのに対し、「安さん」は両国に作られた大仏の開帳から始まり、キャバレーは芸者遊びに、賭けボクシングは相撲に置き換えられた。江戸時代に合わせて随所で設定が変わっている。

「筋書きはよくコピーされているが、単なるモノマネ作品ではない」と大野さんは強調する。「蝙蝠安という歌舞伎のおなじみのキャラクターを引用したことで、単なる翻訳劇ではなく、日本文化の血や肉の入った作品となった。まさに、歌舞伎にしかできない、本質を突いた翻案だと思う」と感心する。

来日フィーバー、歌舞伎との出会い

チャップリンは翌32年5月、初来日を果たす。同年5月15日の夕刊一面では、「待つこと久し!チヤプリン来る」の見出しで、「来る来るという(略)うわさは五年目でやっとものになった(略)そのくらい我慢しないとなかなか会えないらしい」と興奮ぶりを大々的に伝えている。

神戸港に到着したチャップリンの様子を写真や漫画も使って報じている。一面の記事すべてがチャップリンの来日関連で、当時のフィーバーぶりがうかがえる(1932年5月15日夕刊)

約20日間の滞在中、チャップリンは歌舞伎を鑑賞し、今回の「安さん」で主演する当代松本幸四郎さんの曽祖父である初代中村吉右衛門に面会した。

歌舞伎座で初代中村吉右衛門に面会したチャップリン (C)Roy Export Company Ltd.

「チャップリンは、リアリズム重視の西洋の演劇と真逆な、歌舞伎の様式美的な優雅さ、それなのに切腹のシーンは非常にリアルに演じる点などに興味を持ちました。また、歌舞伎役者が大成するのに何十年もかかると知り、幼い頃から芸の修業を積んできたチャップリンは非常に共感し、感動したようです」

日本人の琴線に触れた涙の要素

日本での人気は、来日で頂点に達した。来日を祝う歓迎歌が作られ、レコードが発売された。チャップリンの「コスプレ」をした人々の写真グラフも掲載された。当時の過熱ぶりが紙面からも伝わってくる。

来日翌日、1932年5月16日の夕刊の「和製チャップリンオンパレード」と題した写真特集。浅草や映画の撮影スタジオなどで、当時の俳優や女優らがチャップリンに扮(ふん)し、「いつまでも日本にいて下さいネ」などのメッセージを載せている

「チャップリンは、小さな帽子に大きな靴、ひょこひょこ歩く動きなど、姿・形の絶妙さで、世界中の人が笑えるギャグを追い求めました。それに加えて、涙の要素が、人情話が好きな日本人の琴線に触れたのではないでしょうか」と大野さんは分析する。

国立劇場12月歌舞伎公演「蝙蝠の安さん」(12月4~26日)の魅力を深掘り! 「深掘り 蝙蝠の安さん〈下〉」では、国立劇場の制作担当者に、今回の公演の見どころを聞きます。

※当時の新聞紙面の旧仮名遣いや文体は、現代のものに直しました

(読売新聞紡ぐプロジェクト事務局 沢野未来)

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公式サイト、チケット購入はこちら

https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_l/2019/12150.html

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