能登半島地震で大きな打撃を受けた伝統漆器「輪島塗」の工房には、作業場が損壊するなど厳しい状況の中、日夜制作に励む職人の姿がある。再興を目指し、若手人材の養成施設を整備するため官民産地の代表が策定した「基本構想」では、2028年度以降に開設する施設が、後継者確保、魅力発信、市場開拓を担う方針が決まった。様々な分野の専門家が連携した文化復興に向けた動きは輪島塗以外の分野にもあり、伝統を絶やさないよう奮闘する地元の大きな支えとなっている。
「塗り」の人間国宝 小森邦博さん

作品の背景にあるのは、昨年元日の地震で隆起した能登半島の海岸の景色だ。「能登の波は荒々しいだけではなく、様々な表情がある。見慣れた波も陸が広がったことで、かなり遠くに感じるようになったと思いました」。そんな故郷の海の変化に思いを巡らせた作品だという。

昨年の同展では、
「影響はないと思って頑張ったけど、地震というのはかなり精神的なイメージとして、やっぱり心の中にあるんですよね。来年は違う作品になると思いたい」
小森さんが所長を務める石川県立輪島漆芸技術研修所は〔2025年〕11月21日に卒業式が行われ、16人の卒業生に向けて「熟練の『
「心に傷を負った研修生も多かったと思う。劣悪な環境の中でも、
今年は輪島塗の人材養成施設を整備する官民産地連携の「基本構想策定委員会」の委員も務めてきた。市場開拓の一環で輪島塗の海外展開への期待も高まるが、「(海外の)文化に迎合してデザインを考えるのではなく、自分の作りたいものが向こうの感性とあえば、自然と認められる」。
輪島塗の根本には職人の卓越した「技術」がある。自身の
新人蒔絵師 永嶋珠子さん

震災後に輪島塗の世界に入り、伝統を継承しようという若者もいる。1813年創業の漆器製造販売「輪島屋
本来は4月入社予定だった。しかし、同社は震災で店舗や工房、倉庫、商品に甚大な被害が出た。2月に内定取り消しの連絡をした中室耕二郎社長(52)は「荒れ果てた輪島、半壊した工房に、未来ある若者を預かることは無責任と思い、苦渋の決断でした」と振り返る。
永嶋さんは京都伝統工芸大学校で漆芸を学んだ。内定を得た2か月後に地震が発生。優しくしてくれた人々や朝市通りの光景が目に浮かび、大きなショックを受けた。自身の就職より輪島の被害が心配だった。いったんは他の就職先も探したが、「受け入れていただけるようになるまで待ちます」と返事をした。「本物の漆を使い、町全体に漆器店がある輪島は、私が求める最高の環境でした」
同社はその後、店の展示スペースを、ベテランと若手が並んで技をつなげる作業場に改装。永嶋さんの住む家も時間がかかったが見つけることができた。
永嶋さんについて、中室社長は「とても芯の強い若者。蒔絵師として大きな成長が期待できる」と目を細める。永嶋さんは「一工程、一工程を丁寧にする輪島塗に改めて魅了された。みなさん大変な状況なのに、外から来た私に親切にしてくれる。技も人間性も学ばないといけない」と決意を新たにしている。



輪島塗の分業で、最初の工程となるのが木地作りだ。その後、漆が厚く塗られ、華麗な加飾が施されるが、「
木地には、木材をロクロにかけ、
作業場をのぞくと、様々な大きさ、形状のカンナが並んでいた。小さい物で、ホチキスの針の箱ぐらい。曲面も削れる曲がったカンナもあった。「自分で作った道具や、オヤジから受け継いだものもある」

地震の被害を受けた作業場も自ら修理した。「傾いた作業場を木で支えて、割れた壁を板で補強した。幸い、木はいっぱいあったもんで」。昨年2月終わり頃には、仕事を再開した。
震災後、斬新で創造的な注文を優先的に受けようと意識するようになった。「作り方がすぐに思いつかなくても、寝る前にひらめくことがある。ワクワクして朝早く目が覚める」
輪島では従来から木地師の不足が叫ばれている。復興支援で大きく伸びた売り上げも今年は減っている。「面白いものを作れば、買ってくれる人も、こんなのを作りたいと思ってくれる人も増えるはず」。震災を乗り越えた輪島塗の将来を考えている。

輪島市内に85室ある輪島塗の仮設工房の一つで、
呂色は、輪島塗の制作工程における仕上げ段階の一つで、漆で塗り上がった作品の表面を美しく輝かせる作業だ。専用の木炭で研ぎ、さらに漆をすり込みながら磨く作業を繰り返して、鏡面のような光沢を出す。
作業は最終的に、素手を使う。呂色一筋の北村さんの手は大きく、それでいて手つきはしなやかで滑らかだ。「摩擦で熱くなるような磨き方ではない。薄く塗った漆を力を入れずに浸透させていくんです」。ツヤが出てピカピカになったお盆に、青空が映った。
北村さんの自宅兼工房は、地震で大規模火災が起きた輪島朝市通りの近くにあり、全焼した。一家で車で避難し、同じ石川県の漆器産地、加賀市の山中温泉地区に身を寄せた。現地でも仕事に恵まれたが、輪島に仮設工房ができたと連絡を受け、昨春戻った。改めて認識するのは、呂色を依頼してくる作家の美意識の高さ。呂色師も輪島でこそ輝くことを実感している。
「去年は分からんままに1年が過ぎ、前を向ける精神状態になかった。工房と仮設住宅は離れていて不便だが、何とか仕事ができている。人に喜んでもらえるいい仕事をして、助けてもらったご恩返しをしたい」

輪島市中心部から車で5分ほどの場所にある小峰山。同山を中心とする丘陵地から採掘される

珪藻土は植物プランクトンの死骸が
「

地の粉生産の工場は同組合が運営。テーブルなど大型の輪島塗が大いに売れたバブル時代に地の粉も製造のピークを迎えた。しかし、需要の減少とともに、地震前にはバブル期の約10分の1まで製造量が落ち込んでいたという。能登半島地震では屋外の乾燥施設が被災し、ガス炉の煙突も壊れた。輪島塗生産に必要な地の粉は、地震前から数年分の在庫を確保しているものの、機械などを修繕し、以前のように製造ができるには少し時間が必要だという。
輪島塗の復興構想では、地の粉工場を観光客向けの見学施設として整備し、若手が漆芸の技術などを学ぶ人材養成施設と併設することが決まっている。隅さんは「地の粉は輪島塗の歴史とともにある貴重な資源。その重要性をアピールしつつ、復興につなげたい」と話している。
(2025年12月7日付 読売新聞朝刊より)
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