今年〔2025年〕は戦後80年。戦争体験者が減少していく中、戦禍を伝える当時の建造物や遺跡の重要性が増しています。生々しい傷痕は強いメッセージを発しています。今月の「紡ぐプロジェクト」特別紙面は、先の大戦に関連した日本各地の文化財を紹介します。災いから逃れ、または再建されて人々を励ましたものもあります。現状と次世代への継承に向けた課題を見つめます。
戦時中には、文化財を空襲などから守るため「宝物疎開」が各地で行われた。貴重な文化財の集積する奈良や京都では、現在に伝わる国宝や重要文化財を保護しようと、人々が奔走した記録が残されている。
1300年間守り伝えられてきた奈良・正倉院の宝物は、いち早く疎開が行われた文化財として知られる。宮内庁正倉院事務所の職員がその記録を残している。
太平洋戦争開戦直前の1941年9月、鉄筋コンクリート造の事務所を補強して宝物を移し、一部は奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館)の倉庫にも保管することが決まった。東京帝室博物館から職員の応援も受け、同年11月16日までに荷造りを終えた。移送されたのは、43年10月と45年7月。さらに戦局が厳しくなった45年8月には、京都府内の寺2か所に疎開させる方針が決まったが、間もなく終戦を迎えて中止となった。
このほか、東大寺、興福寺、元興寺といった寺社が所有する仏像などの彫刻、太刀などの工芸品も疎開の対象となった。44年2月以降、国からの指示のもと、定められた奈良県内の寺2か所に移された。一部は山間部の民家でも保管されたことが知られている。
京都市では世界遺産・二条城で文化財を疎開させた経緯を記録した公文書が近年見つかった。狩野派の障壁画などの疎開に関する、城を管理する市の資料だ。
疎開の検討が本格化したのは、本土空襲が広がりだした45年1月。同18日付の文書には、市の担当職員らが文化財の避難先の候補を検討したことが記されている。6月末までに二の丸御殿の彫刻欄間や天井画などが取り外され、六つの米蔵に計1250点が収納された。
一方、当時の文部省と府は市に対して、「城外安全地帯に搬出疎開の急速実施」を求める。市は7月1日から再び作業を進め、720点を市西部の寺や、滋賀県三谷村(現・高島市)の国民学校分教場へ分散させた。京都市は大きな空襲を受けることはなく、終戦後、文化財は城に戻された。
元離宮二条城事務所の松本直子学芸員は「自分たちが生きるだけでも大変な中、文化財を守るためにきめ細やかな対応を続けた先人たちが多くいた。その努力を忘れないようにしたい」と話す。
文化財の調査・研究は戦後、大きく進展した。その成果は戦争で傷ついた日本人に大きな希望を与えた。
静岡市の「登呂遺跡」は弥生時代の水田・住居跡、農具として使用された木製品などが出土。「日本の初期の稲作文化の実態」を初めて証明した遺跡として特別史跡に指定されている。
遺跡は戦時中の1943年に発見されたが、戦闘機のプロペラを製造する軍需工場の建設予定地だったため、部分的な発掘しか行われなかった。戦後の47年、神話に基づく「皇国史観」からの脱却の流れがあり、考古学だけでなく建築・農業・植物など様々な専門家による科学的な発掘が実施された。著名な学者に加え、多くの市民や学生も参加し、この調査を機に、日本考古学協会が発足した。
市立登呂博物館の岡村渉館長は「日本の原風景につながる遺跡への関心は非常に高かった。市民に開かれた登呂遺跡の発掘は、戦後の平和と学問の自由を表す出来事として意義がある」と話している。
戦災で失われた文化財の復元も進んだ。中でも地域のシンボルとして親しまれてきた城の天守は再建を望む声が各地で大きかった。
御三家筆頭の尾張徳川家の居城だった名古屋城(名古屋市)の天守は戦前、江戸時代の姿を残す「国宝天守」の中で格別の存在感を放っていた。45年の名古屋空襲で失われた天守を巡り、戦後は専門家による再建準備委員会が発足。国内外からの募金も集まり、戦前の写真や実測図をもとに59年に鉄骨鉄筋コンクリート造りで再建された。
こうした「復元天守」は広島・岡山など各地で建てられており、戦後復興の象徴となった。一方、富山城(富山市)のように、戦前にはなかった天守を戦後新たに造り、「戦災復興期を代表する建築物」として、国登録文化財となった例もある。
戦中戦後の混乱期は絵画や仏像などの文化財が散逸の危機にさらされた。今も所在不明の文化財は多いが、沖縄戦で行方が分からなくなった琉球国王の肖像画「
刀剣も、GHQ(連合国軍総司令部)による武装解除の影響で廃棄されたり、戦利品として国外に持ち去られたりした。そんな中、GHQの命令で関東各地から膨大な数の刀剣が米第8軍兵器補給
残りの刀剣のうち約3200本が「接収刀剣類処理法」に基づき、刀剣博物館(東京都墨田区)の学芸員や
譲渡の条件には「適切な保存管理」が必要とある。福岡県大牟田市は所蔵する刀の修復費用をクラウドファンディングで募った。また、東京都福生市のように研磨した刀とともに譲渡された当時の
同館の元学芸員で、国学院大大学院の井本悠紀・兼任講師は「赤羽刀は悲惨な歴史を伝える文化財。保存・活用の方法を今後も模索する必要がある」とする。
先の大戦では世界各地で文化財の破壊や略奪が相次いだ。ユネスコは1954年、「武力紛争の際の文化財の保護に関する条約(ハーグ条約)」を採択。前文には「いずれの人民に属する文化財に対する損傷も全人類の文化遺産に対する損傷を意味する」と記される。
日本では、戦後復興のさなかの49年に法隆寺の金堂壁画が焼損する火災が発生したことをきっかけに文化財保護法が成立した。一方で、文化財を紛争から守る理念自体が紛争を前提としているとされ、憲法と相いれないという議論もあり、文化財保護の国際協力体制に加わるまでには時間がかかった。
80年代以降、政府が国際文化交流の強化を掲げたのを契機に、内戦下で寺院などが破壊されたカンボジアのアンコール遺跡の保存修復協力事業が始まった。こうした実績を踏まえ、ハーグ条約を批准したのは2007年。人類共通の遺産を保護する「世界遺産条約」の枠組みにも1992年に参加した。
2001年にはタリバン政権によってアフガニスタン・バーミヤン遺跡の大仏が破壊され、15年にはイスラム過激派組織「イスラム国」によってシリアのパルミラ遺跡が爆破された。世界遺産として価値が知られる文化財がかえって攻撃対象として狙われるなど、大戦後に築かれた文化財保護体制の根幹が揺らぐ事態が相次いでいる。
ウクライナやガザ、スーダンなどで今も戦禍が続く中、文化財をどう保護していくか。改めて問われている。
(2025年8月3日付 読売新聞朝刊より)
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