2021.8.12

【橋本麻里のつれづれ日本美術】北斎と江戸の人々と富士をめぐる10の話

葛飾北斎 「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」 山口県立萩美術館・浦上記念館蔵(浦上コレクション)

1760年生まれとされる葛飾北斎の生誕から260年を経て、現在、六本木ミッドタウンホール(東京都港区)では、それを記念した展覧会「北斎づくし」が開催中だ。絵手本《北斎漫画》、錦絵《冨嶽三十六景》、絵本《富嶽百景》という、それぞれのジャンルで北斎の代表作と言える作品の全点全図を一堂に展示する、という前代未聞の構成が話題となっている。

無双の山の姿を描ききる!

一部を除き、展示作品の大半を提供したのはコレクター、古美術商でもある浦上満、会場構成は建築家の田根剛、図録・ポスター・チラシなどのグラフィックデザインは祖父江慎という強力なラインナップ。筆者自身も当初から企画に参画し、コンセプト設計や会場内テキストの執筆に携わった。

葛飾北斎 『北斎漫画』三編 浦上満氏蔵
葛飾北斎 『北斎漫画』十編 浦上満氏蔵

見どころ──といっても多すぎてどこが、と特定しにくい。だがすべてのジャンルを横断して登場するモチーフといえば、北斎が生涯に渡って執着し続けた富士山だろう。

この世のものも、あの世のものも、具体的なかたちを備えた存在も、かたちなき事象も。描くべき無数のもの、ことの全てを描きつくしたい。そんな北斎の望みのもう一方の極が、富士というたった一つの、そして世界全てに匹敵する山嶺の千変万化する姿を、筆によって留めようというものだった。

葛飾北斎 「冨嶽三十六景 常州牛堀」 山口県立萩美術館・浦上記念館蔵

世界中の多くの人が、まずこのシリーズを通して葛飾北斎の存在に触れる『冨嶽三十六景』は、いわゆる名所絵のように、その絵が描かれた場所が「どこ」かを、さほど重視はしていない。むしろ1年の、あるいは1日の移ろいのうちに、また天候や視点の位置の変化によって、それぞれに異なる富士山の様相の魅力を、描き出そうとしている。そしてそれは、ただ北斎個人の志向というだけではなく、富士山への信仰心がかつてなく高まり、多くの人に共有された、時代との共鳴でもあった。

そんな北斎と富士、江戸の人々と富士との関係を、10のテーマから紐解いてみたい。

【その1】疾風怒濤、錦絵の時代
葛飾北斎 「冨嶽三十六景 甲州三坂水面」 山口県立萩美術館・浦上記念館蔵(チコチンコレクション)

画号や住まいを頻繁に変えた葛飾北斎は、集中する絵のテーマも次々変わっていった。『冨嶽三十六景』をはじめ、『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』『琉球八景』など、北斎の名と共にまずイメージされる、色鮮やかな大判浮世絵の揃物(あるテーマの下に複数枚の浮世絵をシリーズとして刊行したもの)は、71歳から74歳まで、わずか4年ほどの間に描かれたもの。疾風怒濤のごとく駆け抜けた「錦絵の時代」の最高峰こそ、この『冨嶽三十六景』なのだ。

【その2】「三十六景」でも「46枚」とはこれいかに
葛飾北斎 「冨嶽三十六景 山下白雨」 山口県立萩美術館・浦上記念館蔵(浦上コレクション)

「三十六景」と銘打つからには36枚揃い、と思いきや、このシリーズの総数は46枚。刊行に先立つ版元・西村屋の広告には、「冨士三十六景(中略)追々彫刻すれバ猶百にもあまるべし三十六に限るにあらず」(合巻『正本製十二編下冊の巻末広告』)とあり、当初から「増える」可能性はあったらしい。46枚の制作順は、未だに結論が出ていないが(会場では「刊行」順を提示)、先行する36枚を「表富士」、後から追加した10枚を「裏富士」とする符丁は粋なもの。

【その3】不死の山

平安時代前期に成立した最古のつくり物語、『竹取物語』。絶世の美女、かぐや姫が、月の世界へ帰った後の、エピローグに富士山が登場するのをご存知だろうか。傷心の帝は、姫が形見にと残していった不老不死の薬を、天に最も近い、駿河国の山で燃やすように命じる。この時、大勢の兵士が山頂で薬を燃やしたことから、「不死」と「多くの兵士」をかけて、その山は「富士」と名づけられ、今も煙が立ちのぼっていると、名の由来が語られるのである。

【その4】縄文のツインピークス
葛飾北斎 『富嶽百景』初編 浦上満氏蔵

日本列島では古くから、里を水で潤し、獣や山菜などの恵みをもたらす山への畏敬の念が育まれてきた。富士山に対しても同様で、静岡県や山梨県には、富士山を意識して配された、縄文時代中期の環状列石が知られている。ただしこの時代に生きた人々が見たのは、古富士火山、新富士火山と、二つの頂が東西に並び立つ「ツインピークス」だった。そして約2900年前、古富士火山の激しい噴火が、現在見るような単独峰へと富士山の姿を変えたのだ。

【その5】最遠の富士

「富士見」という地名は、富士山を望むことができた場所を意味している。その中には、富士山から遠く離れた、まさかと思うような地域もある。たとえば現在、富士山を望める最遠の地とされるのは、和歌山県那智勝浦町の妙法山と色川小麦峠。富士山から離れること実に320km以上。今のところカメラのレンズを通した「遠望」のみだというが、現地には熊野詣の際、熊野古道から富士が見えたと言い伝えも残る。空気がきれいで、人の視力もよかった時代には、肉眼でも見えたのかも、という想像が膨らむ。

【その6】信仰としての登山

火山活動が活発で、駿河・相模両国に大きな被害をもたらした、奈良時代末から平安時代にかけて、富士山への信仰は、麓から「遥拝」する形にとどまっていた。登山を伴う「登拝」が始まるのは、12世紀以降のこと。登山を信仰の証とした末代という名の修験者が出現し、数百回の登頂を重ねたと伝わっている。富士山頂に寺を建立し、一切経を埋納した末代は、「富士山上人」とも呼ばれ、以後中世に活発化していく富士修験の祖と仰がれた。

【その7】富士登拝ブーム来たる!
葛飾北斎「冨嶽三十六景 諸人登山」 山口県立萩美術館・浦上記念館(チコチンコレクション)
葛飾北斎『富嶽百景』初編 浦上満氏蔵

富士山信仰が大きく変化したのは、近世の初めに至ってのこと。階層や身分、男女を超えた平等思想、生業への精勤、父母への孝養、登拝と精進潔斎などを説く行者たちが、江戸で布教を始めた。その教えはやがて、江戸の商人や職人、周辺農村の農民の間に、ある種の道徳律として爆発的に普及していく。彼らは富士山への登拝を目指す集団「富士講」を結成。白衣を着て鈴と金剛杖を携え、「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら、富士山頂を目指したのだ。

【その8】人工の富士山

登拝が難しい女性や老人、病人のために、富士山が見える場所を選び、富士山に見立てて参拝・登拝できるようにと築造されたのが「富士塚」だ。安永9年(1780年)、高田水稲荷境内に築かれたのを始まりに、現在の都区内に当たる地域だけで50数か所の富士塚があったと伝わっている。今も都内には富士塚が残っているが、江古田・茅原浅間神社境内、豊島長崎・富士浅間神社境内、下谷坂本・小野照崎神社境内の富士塚は、国の重要有形民俗文化財に指定されている。

【その9】青の革命

18世紀初頭、プロイセン王国の首都・ベルリンで、新たに発明された化学顔料は、水によく溶け、可視光・紫外線や酸素に対して安定し、青の発色が鮮やか、かつグラデーションが容易にできる、画期的な青色絵具だった。この「プロイセンの青(プルシアン・ブルー)」を安価に輸入できるようになるのが、北斎「錦絵の時代」直前のこと。それまで役者絵と美人画を2本の大きな柱としてきた浮世絵版画は、北斎の才能と舶来の青色の登場によって、風景という新しいテーマを確立したのだ。

【その10】世界はいつ富士山を知ったのか
葛飾北斎 『富嶽百景』初編 浦上満氏蔵

「日本の象徴としての富士山」が、国外に知られた最も早い例は桃山時代。イエズス会の宣教師ジョアン・ロドリゲスが『日本教会史』に記した富士山の地誌、そして長崎から江戸への旅の記録に残した、富士山への信仰や巡礼の様子だった。いずれの記述もその抜きん出た高さや、四方から眺められる優美な形、日本中に知られ、信仰を集めていることに言及している。その後も伝聞をまとめたものや、日本を旅行した博物学者の記録などによって、山の高さ、美しさが西欧世界へ伝えられていった。

生誕260年記念企画 特別展「北斎づくし」

https://hokusai2021.jp/

橋本麻里

プロフィール

ライター、エディター。公益財団法人永青文庫副館長。

橋本麻里

新聞、雑誌への寄稿のほか、NHKの美術番組を中心に、日本美術を楽しく、わかりやすく解説。著書に「美術でたどる日本の歴史」全3巻(汐文社)、「京都で日本美術をみる[京都国立博物館]」(集英社クリエイティブ)、「変り兜 戦国のCOOL DESIGN」(新潮社)、共著に「SHUNGART」「北斎原寸美術館 100% Hokusai !」(共に小学館)、編著に「日本美術全集」第20巻(小学館)ほか多数。

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