2019.10.18

【ボンボニエールの物語 vol. 5】明治のボンボニエール 有栖川宮家の物語

手箱形短冊花卉蒔絵(学習院大学史料館蔵)

明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布式にてお披露目されたボンボニエール。その後、天皇家以外の宮家でも、天皇家にならってボンボニエールを作るようになっていく。今回は明治中期から積極的にボンボニエールを制作・下賜し、そして大正の初めには家が途絶えてしまった有栖川宮ありすがわのみや家の美しい小箱の物語である。

江戸時代より続く名門の宮家であり、天皇家の書道教授の家でもあった有栖川宮家。はるばる京都から江戸の第14代将軍徳川家茂いえもち輿入こしいれした「悲劇の皇女」和宮かずのみやは、婚約者と引き離されたことが知られるが、その別離した相手こそ、有栖川宮熾仁たるひと親王であった。熾仁親王は戊辰戦争の将であり、「五箇条の御誓文」を揮毫きごうし、明治政府において重要な職を歴任した。明治28年(1895年)に死去したが、実子がいなかったため、弟の威仁たけひと親王が有栖川宮家を継いだ。

威仁親王は16歳から28歳までの間、ほぼ外国で暮らしており、国際感覚が身に付いていた。明治24年(1891年)には、来日中のロシア帝国の皇太子(後のニコライ2世)を警察官が切りつける事件(大津事件)が発生したが、おもてなしの主任とも言うべき立場だった威仁親王は即座に適切な対応を取り、強国ロシアを怒らせずに事態を収拾したことでも有名である。

威仁親王は外国通のうえ、なかなかのイケメンで、妃殿下は加賀百万石前田家の慰子やすこ姫、というセレブリティー。ボンボニエールもかなり早い段階で導入している。

明治26年(1893年)にベルギー特命全権公使として来日したアルベール・ダヌタン男爵夫人エリアノーラ著「ベルギー公使夫人の明治日記」(中央公論社刊)には、「デザートのときに、有栖川宮家の家紋が金漆きんうるしで描かれた黒い漆塗りの美しい小箱が、その日の記念に各人に贈られた」(1896年2月14日)、「恒例の綺麗な漆塗りの箱が私たちに贈られた」(1897年1月1日)と書かれており、この時期に有栖川宮家の饗宴きょうえんでは、「漆塗りの美しい小箱」が配布されていたことが確認できる。学習院大学史料館所蔵の有栖川宮家紋付きのボンボニエールは、大きさ4.0 センチ×4.2センチの小箱で、黒漆塗金蒔絵きんまきえ。「漆塗りの美しい小箱」とは、このようなボンボニエールであったと考えて間違いないだろう。

銀のボンボニエールも美しいが、漆のボンボニエールには日本的な繊細の美が感じられる。木製漆塗りのものは明治期から大正初期には多く作られるが、その後はほぼ姿を消し、次に登場するのはおおむね昭和15年(1940年)以降となる。この再登場の理由は、いずれお話しすることにしよう。

威仁親王は明治天皇の信任があつく、皇太子嘉仁よしひと親王(後の大正天皇)の教育係に任命された。また、日本で初めて自動車で「遠乗り」(ドライブ)をしたとの記録もある。天皇家以外で現存する明治中期の豪華な晩餐ばんさん会用洋食器セットも、有栖川宮家のものである。西洋好きであった明治のセレブリティー、威仁親王。ベルギー公使夫人日記に見られるように、ボンボニエールの普及にも積極的であった。

有栖川宮家のボンボニエールを下賜されたのは外国人だけではない。同家の饗宴に招かれていた前田利嗣としつぐ朗子さえこ侯爵夫妻も、この先進的な贈り物にいたく感激したようだ。前田家に残る直径5センチに満たないかわいらしいお供え餅のような形のボンボニエール2個を収めた箱には、下賜された際の様子が詳細に書き留められている。それによれば、明治31年(1898年)5月23日、外国賓客を招いた有栖川宮家での晩餐会、その終了時に金と銀の蓋色の菓子器が盆に載せられ、各人に振る舞われた。利嗣は金色を、朗子は銀色のものを選んだ、とある。金と銀とは、七宝で表した有栖川宮家紋のことだろう。

丸容器形(学校法人国学院大学蔵)

威仁親王・慰子妃の間には3人の子供が生まれたが、績子いさこ女王は生後間もなく死去、栽仁たねひと王も明治41年(1908年)、20歳の若さで死去した。唯一成人した實枝子みえこ女王は最後の将軍徳川慶喜よしのぶの息子・公爵徳川慶久よしひさに嫁した。

元々病弱であった威仁親王は栽仁王の死後、体調を崩し、大正2年(1913年)7月5日に死去。すでに栽仁王が死去していたため、有栖川宮家は断絶となった。しかし、威仁親王を兄のように慕っていた大正天皇の意向により、第3皇子宣仁のぶひと親王に有栖川宮家の祭祀さいしを継承させ、有栖川宮家の旧称を用い「高松宮」家をたてることとなった。その後、宣仁親王は實枝子女王の子である徳川喜久子きくこと結婚、天皇家と有栖川宮家と徳川家の全ての血脈がつながることとなった。

有栖川宮家ゆかりのものは案外身近なところに残されている。栽仁王の新邸用地だった場所は昭和9年(1934年)に東京市に寄贈され、現在は港区の有栖川宮記念公園となっている。熾仁親王・威仁親王共に最期の地となった兵庫県の舞子別邸は、シーサイドホテル舞子ビラ神戸となっており、当時の風光明媚めいびさを今に伝えている。

長佐古美奈子

プロフィール

学習院大学史料館学芸員

長佐古美奈子

学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。

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