洋風建築は明治時代初期の文明開化と共に急速に地方に伝わった。具体的には小学校や県庁舎などの公共的な建物から始まった。擬洋風建築の建設に力を注いだことでは山梨県令(県知事の前身)・藤村紫朗や山形県令・三島通庸らが知られている。現代に残った擬洋風建築を将来に伝えるには、建物の適切な維持・管理に加え、だれもが親しめる活用法がカギを握る。
旧開智学校校舎は1876年(明治9年)4月に長野県松本市街地の中心部に建てられ、その後90年近く使用された小学校の校舎だ。1963年から64年にかけて現在地に移築されている。木造2階瓦ぶき屋根の寄せ棟造り。地元の大工棟梁・立石清重(1829~94年)が設計した。正面中央やや右寄りに車寄せを造り、その上に塔屋を設ける。
旧開智学校校舎の学芸員、遠藤正教さんは「校舎は見れば見るほど興味の尽きない建物。明治初めに各地で建てられた、和風と洋風が混ざり合った擬洋風建築の中で、他とは一線を画する独創性がある」と指摘する。
その最たるものが、建物正面にある西洋由来の天使の看板と、日本で伝統的に使われてきた竜の彫刻を並べて配置する極めて大胆なデザインだ。
西洋建築の石積みのように見える建物の四隅は、伝統的な材料の漆喰に灰色の色を塗り重ねて仕上げた。2階には木製の角柱にレンガ模様をペンキで描き、レンガ造りのように見せた柱もある。
一方で、旧開智学校校舎は明治初期の学校校舎として非常に機能的に造られている。当時は小学校校舎の多くが寺院や空き家の転用と言われ、学校として使うには不都合の多い校舎がほとんどだった。そんな中で同校舎は中廊下を造り、その両側に教室や講堂などを配置。教室のサイズも統一した。近代的な学校制度を定めた学制(1872年発布)の理想形に近い校舎としてスタートした。
これらの要素が高く評価され、2019年、近代建築では3件目、近代学校建築としては最初の国宝に指定された。
ただ、16~17年に実施した耐震基礎診断によって大地震で倒壊の恐れのあることが判明。その後、コロナ禍のため入館者の制限が始まっていたが、21年6月から耐震工事に入り、建物の公開と教育関連資料の展示は中止となっていた。
遠藤学芸員は「耐震工事が終了し、再公開の日を迎えられるのは何より。これまで非公開だった塔屋内部を見学する特別企画などを今後計画していくので注目してほしい」と力を込めた。
立石清重は旧開智学校校舎の設計・施工の前、1872年と75年の2回、東京や横浜に洋風・擬洋風建築の見学旅行に出かけている。二代清水喜助が手がけた建物なども見学しており、この旅行で見た擬洋風建築の要素と自身の伝統建築の技術を組み合わせ、旧開智学校校舎が誕生したと考えられている。
(2024年10月6日付 読売新聞朝刊より)
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