「御座敷の内、皆金なり。そとがは、是れ又、金なり」
織田信長の右筆であった太田牛一が、信長の入京(1568年)から「本能寺の変」(1582年)までを記した一代記『信長公記』にある一節です。
琵琶湖東岸に信長が築いた安土城天守閣の内部が、金箔の上に絵を描く金碧濃彩(濃絵)の手法で描かれた眩いばかりの障壁画で覆われていたことを今に伝えています。
織田信長、豊臣秀吉が天下統一を進めた安土桃山時代(織豊時代)には、それまでにみられなかった煌びやかな絵画が城を飾るために数多く描かれました。
しかし、日本美術史上、最も輝きに満ちた作品を生み出した安土桃山時代はわずか30年ほどの期間しかありません。つい最近、年号を改めた平成と同じ長さです。
では、どうしてそれだけの短期間に令和の時代まで受け継がれ、教科書にも掲載されるようなメジャーな作品が次々と誕生したのでしょう。また、果たしてハデハデな障壁画だけがこの時代を象徴するものなのでしょうか。
その秘密を探るいくつかの鍵は、東京国立博物館・平成館にて開催中の特別展「桃山―天下人の100年」でみられる、天下人が愛した作品の中にちりばめられています。
桃山文化の象徴でもある絢爛豪華な襖や衝立、屏風などを一手に引き受けたのが狩野派です。中でも、狩野永徳(1543~1590)の存在は、この時代を語る上で欠かすことができません。狩野派の中でも最も知名度が高く、教科書でも必ずカラー図版が掲載されている、押しも押される「有名人」です。時代の寵児とよんでも過言ではありません。
彼の名をそこまで轟かせたのは、ひとえに信長、秀吉の依頼を一身に受け城を飾る障壁画を数多く手掛けたからに他なりません。ただし、安土城や聚楽第が10年も経たぬうちに灰燼に帰してしてしまったことを考えると、永徳は日本美術史上、生前から最も大きな悲劇に見舞われた絵師なのだとも言えます。
実際、永徳作品とされ、現存するものは、10点ほどと言われています。そんな激レアな永徳作品の中でも、飛び切りメジャーな作品である国宝「洛中洛外図屏風」(上杉博物館)、「唐獅子図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館)、国宝「檜図屏風」(東京国立博物館)、「花鳥図襖」(京都・聚光院)などが見られるのが今回の「桃山展」です。時の権力者の寵愛を受け、高価な絵の具で思う存分に描いたであろう障壁画を、まずは心行くまで堪能しましょう。
大スターばかりに目を向けていては、時代の姿を見誤ってしまいます。永徳のライバル的存在であった長谷川等伯や、土佐派の作品も忘れてはなりません。
室町時代が幕を閉じ、新興武士たちの自己顕示欲によって創り出された、現世的で人間的な文化を開花させたのが「桃山文化」の一番の特徴であり、大きな見どころです。
これが実は、たいへん大きなターニングポイントだったのです。なぜなら、これまで仏教と密接に結びつき、信仰の対象として発展を遂げてきた日本美術が、ここへ来て初めて「人間的なもの」となったからです。
桃山文化を派手な文化と捉えることは間違いではありませんが、それだけでは全体像をつかんだことにはなりません。ハレの日とケの日、陽と陰で我々の生活が成り立っているように、桃山文化にも深い精神性をたたえた面があります。
「桃山展」では例えば、永徳作品に向かい合うかのように、墨の濃淡だけで表現した水墨で描かれた襖絵が展示されています。中でも曽我直庵、海北友松の2人に注目です。
また、信長・秀吉が茶の湯を愛したことはよく知られていることです。 2人に茶頭として仕えた千利休が大成させた侘び茶は、茶器や茶室から装飾を極力排しており、眩いばかりの天守閣とは対照的です。
「桃山展」一番の裏メニューは、利休によってあらたな価値観を付与され、天下人たちに愛された茶道具です。「茶道具名品展」と展覧会のタイトルを変えても、十分通用するほどの名品ぞろいです。
水墨画や茶道具などの「わび・さび」も、この展覧会では見逃すことができません。巨大で圧倒的な障壁画と繊細で精神的な美を有する茶道具や工芸品。桃山文化が持つこの二面性があるからこそ、その後、長きにわたり、日本文化の象徴となり得たのです。
プロフィール
ライター、ブロガー
中村剛士
15年以上にわたりブログ「青い日記帳」にてアートを身近に感じてもらえるよう毎日様々な観点から情報を発信し続けている。ウェブや紙面でのコラムや講演会なども行っている。著書に『いちばんやさしい美術鑑賞』『失われたアートの謎を解く』(以上、筑摩書房)、『カフェのある美術館』(世界文化社)、『美術展の手帖』(小学館)、『フェルメール会議』(双葉社)など。 http://bluediary2.jugem.jp/
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