修理のために搬出される障壁画を成就寺(和歌山県串本町)で見送った後、町を歩くと、ニュースを見たという人たちから「芦雪の絵が出たんだね」と声を掛けられた。「芦雪」という名前が、タクシーや商店、居酒屋でも聞こえてくるこの町の、文化的な豊かさがうらやましい。
そんな串本の人々に愛される芦雪とは、どのような人物だったのだろう。
作家・司馬遼太郎の短編小説「蘆雪を殺す」では、エキセントリックな性格で、最期は武士から恨みを買って毒殺されたと書かれているが、果たして……。和歌山にも足繁く通う芦雪の研究者で、「かわいい こわい おもしろい 長沢芦雪」(新潮社)などの著作がある京都・福田美術館の学芸課長、岡田秀之さんに会いに行った。
「芦雪は、戦前からも定期的に展覧会が開かれるなど、人気がある絵師の一人です」。資料を机に並べて、岡田さんが話をしてくれた。
「思い切った構図にしたり、指で描いたりと、若い頃から色々なことに挑戦してきた人です。かわいらしいものはとことんかわいく、おどろおどろしいものはとことん気持ち悪く、大きいものは小さく、小さいものを大きく描くなど、自由な発想でインパクトの強い作品を残した。画力や技量はしっかりしていながら、見た人をびっくりさせる、面白がらせる。サービス精神にあふれた、エンターテイナーのような画家とも言えますね」
芦雪は1754年、丹波国篠山藩(兵庫県)の武士の子として生まれた。やがて画壇の花形・円山応挙の門に入る。当時の京都画壇は、同じ「奇想の絵師」の系譜で語られる伊藤若冲も活躍していた頃。体毛の一本一本までを精密に、写実的に描く応挙のスタイルを学んで画力を高めた芦雪だが、「ほかの多くの弟子と違い、芦雪はそこからなるべく離れようと、個性を出そうとしました」と岡田さんは話す。
応挙も、当時の絵の世界のスタンダードだった「狩野派」の型に、写実や遠近法などを取り入れることで自分の画風を確立した「型破り」な絵師。「新しいことに挑戦する芦雪は、師の画風からは離れても、師の姿勢を見習った意味で、もっとも弟子らしい弟子だったとも言えます。応挙からの信頼も厚かったでしょう」。それは兄弟子をさしおき、応挙の名代として南紀に赴き、由緒ある寺の本堂の絵を任されたという事実からも推察される。
一方で、芦雪には不名誉な逸話も多い。奇人で傍若無人、応挙に何度も破門された、最後は殺された――。岡田さんは、芦雪が46歳で大阪で客死したのは間違いないとしながらも、殺害疑惑については「検証ができていない」と一蹴する。
「幕末以降、絵師のエピソードの本などが出版されますが、その頃から芦雪を変な人だとする話が書かれるようになりました。絵そのものをけなす評論は少なく、もっぱら人物や素行を批判するものが多いが、確たる証拠は残っていません。応挙の画風を受け継いだ者たちが、自らの画風の正当性を主張するために芦雪を貶めた可能性もありえる。ファンがいる一方、アンチも多かったのです。彼の一般的な評価が変わったのは、平成に入った頃からでしょうか」
インターネットを中心に、芦雪の子犬の絵が「かわいい」「芦雪犬」と評判になり、同じ串本町にある無量寺の「虎図」の、どこか漫画のようなタッチは、日ごろ日本画になじみのない人たちの心をつかんで人気が広がった。芦雪の面白さに注目する研究者も増えた。
人気が高まる芦雪だが、真偽不明の逸話も含めて、来歴は解明されていない部分も多い。そのため、制作期間が特定できる和歌山・南紀の芦雪作品は、研究の基準作として重要なのだという。また、和歌山県田辺市の高山寺の住職が残した日記には、寺に立ち寄った芦雪自身が語ったという身の上話が残されており、貴重な一次資料になっている。
岡田さんは数年前、芦雪の未発表作を南紀の民家で発見した。「亡くなってまだ200年ほどですから、まだまだ知られていない作品の発見があるはずです。特に、和歌山は注目の場所です。地元の方が大切に残されていますから」
改めて、南紀は芦雪にとってどのような場所だったのか。
「南紀に行くまで、芦雪は掛け軸などの小ぶりな作品が多く、部屋全体の襖や壁といった大画面は、あまり経験がなかった。だからこそ、セオリーを気にせず、自由に、大胆に描いたのでしょう。彼独特の大胆でのびのびとした、荒々しい筆致が開花したと言えます」
これは串本の漁協の人に聞いたのですが……と、美術館が所蔵する「海老図」を示しながら、岡田さんが付け加えた。
「このエビの色は、深い海の底に生息する伊勢エビの色なんだそうです。彼がいたのは、ちょうど伊勢エビ漁のシーズン。この絵自体は南紀の旅の後に描いたものだから、おそらく現地でスケッチをしたのでしょう。その時、新鮮なエビを食べた可能性もありますね。
僕も何度も串本に行っていますが、温暖な気候、美しい風景、親切で暖かい地元の方々、おいしい食べ物……本当に素晴らしい場所です。芦雪もおそらく人々に温かく迎えられ、当地での暮らしを謳歌し、彼らの期待に応えようと腕をふるったことでしょう。あの南紀の町が、芦雪に傑作を描かせたのだと思います」
美術館を後にして、芦雪が住んでいたとされる京都市中京区の「御幸町御池下ル」へ足を伸ばした。幹線道路に近く、街路樹のセミの声と車の走行音でせわしない。一方、一筋西へ行くと歴史ある老舗旅館が向かい合い、京都の今昔が感じられる地域だ。ここから約171キロ離れた串本に比べると、太陽は遠く、潮騒が聞こえることもない。あの底抜けに明るく美しい海辺の町が、芦雪が筆を尽くし、彼の作品を守り継ぐ人たちが住む町が、ふと恋しくなった。
(おわり)
(読売新聞紡ぐプロジェクト事務局 沢野未来、写真も)
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