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2020.9.3

【大人の教養・日本美術の時間】都会の美術館探訪 vol. 1 大倉集古館

大倉集古館(大倉集古館提供)

都会には、隠れ家のような美術館が点在しています。それは、慌ただしい日常から私たちを解き放ってくれるオアシスのような存在。

美術館の歴史は、美術を愛した人たちの歴史です。代々守り伝えた家宝、あるいは、ビジネスの傍ら私財を投じて集めた名宝を公開することで、芸術の恵みを広く分かち合おうとした人々。シリーズ「都会の美術館探訪」では、彼らの豊かな人生と美術館をご紹介します。

アートが深く根差した社会は豊かです。日本のビジネスパーソンに美術愛好家がもっと増えることを願って――。

先見の明と実行力

東京・虎ノ門の江戸見坂を上ると、The Okura Tokyo(旧ホテルオークラ)の隣に、青銅色の屋根、赤い柱、白い壁の中国風の建物が現れます。日本最古の私立美術館、大倉集古館です。国宝3点、重要文化財13点を含む、約2,500点余りの美術品が収蔵されています。

大倉喜八郎(右)と喜七郎(鮫島圭代筆)

創立者の大倉喜八郎は、明治から大正にかけて活躍した実業家です。

生まれは江戸時代末、現在の新潟県新発田市。大きな商家の三男で、12歳から家業を手伝いながら私塾に通い、17歳のときに友人の父親が武士の横暴に遭った事件を機に、自力で未来を切り開こうと江戸に出たといいます。鰹節かつおぶし屋に奉公したのち、21歳で上野に乾物店を開業。その10年後に鉄砲商となり、神田に店を構えました。

翌年の慶応4年(1868年)、戊辰ぼしん戦争が起き、喜八郎の店は武器の供給で潤いました。新政府軍が旧幕府軍に勝利し、いよいよ明治時代が幕を開けます。

明治4年(1871年)、岩倉具視率いる政府の岩倉使節団が横浜から出航した翌年、30代半ばの喜八郎も経済視察のため、米国経由でヨーロッパに渡りました。民間人として初の長期欧米視察でした。この旅で岩倉具視や伊藤博文らの知遇を得ます。

帰国後まもなく、日本人初の貿易商社・大倉組商会を銀座に設立。翌年には、ロンドンに支店を出し、日本企業初の海外支店となりました。その後、日清・日露戦争の軍需や日本の経済発展のなかで莫大ばくだいな利益を上げ、数多くの事業を興して大倉財閥を築き上げます。

喜八郎の経歴には「日本初」の文字が並びます。

「自分は若いときから世間の評判などは気にしなかった。何事によらず相手より先に行動しなければならない。いかに多くの失敗・難関があろうとも自らを信じて力いっぱい努力することである」

こう述べた喜八郎は、その先見性と実行力を美術品の保護にも発揮しました。

日本文化の守り手に

明治維新直後、西洋化が進む陰で、日本の文化財が大きな危機に直面していました。仏教を排斥する廃仏毀釈はいぶつきしゃく の嵐が吹き荒れ、各地で仏像や仏具が壊され、あるいは安価で売り出されたのです。また、幕藩体制の崩壊により、旧大名家から大量の古美術が二束三文で市場に出ました。国内には有力な収集家がいなかったため、ちょうど日本ブーム(ジャポニスム)に沸いていたヨーロッパに数々の名品が流出することとなります。

喜八郎はこの状況を憂いて、日本文化の守り手になろうと、持てる財力を古美術収集に注ぎました。のちに明治20年代から、政府の文化財保護政策が本格化し、多くの財閥が美術収集を始めますが、それに大きく先んじていたのです。喜八郎は日々の激務のなかで仏像を鑑賞することに安らぎを感じていたといい、仏像収集には特に力を入れました。

明治の実業家にとって美術品はステータスでしたが、一般に常時公開することはありませんでした。そんななか、喜八郎はまたも時代に先んじて、50代前半に、赤坂の敷地に2階建ての大倉美術館を建設し、収集品を訪問客に披露します。

明治33年(1900年)には、パリ万国博覧会に所蔵品の国宝「普賢菩薩騎象像ふげんぼさつきぞうぞう」を出品。この年、英国ケンブリッジ大学に留学した息子の喜七郎、そして徳子夫人とともに現地を訪れました。

大正4年(1915年)、喜八郎は長年の社会的功績が認められ、男爵に叙されます。これを機に、手に入れた富を広く公共に帰すという信念のもと、所蔵品を一般に公開するため、 大正7年(1918年)、赤坂に日本初の私立美術館・大倉集古館を開館しました。

時間を見つけては館を訪れて、仏像などを鑑賞していたという喜八郎ですが、わずか5年後、関東大震災で建物と約3,300点もの収蔵品が焼失します。その落胆の大きさは想像もつきません。倉庫内で無事だった収蔵品と、猛火のなか搬出された展示品が、現在のコレクションの礎となっています。

その後、昭和2年(1927年)に、伊東忠太の設計で、鉄筋コンクリート造、耐震・耐火の壮麗な中国風の新しい集古館が完成。しかし、喜八郎は翌秋に控えた開館を待つことなく、90歳で逝去しました。

近代日本画のパトロン

跡を継いだ嫡男・喜七郎は、若い頃、7年間の欧州生活を経験し、自動車、音楽、乗馬と非常に多趣味。周囲から「バロン・オークラ」と呼ばれた、容姿端麗な貴公子でした。

古美術収集に加え、新しい日本画の擁護とPRにも情熱を注ぎました。昭和5年(1930年)には、ローマで「日本美術展覧会」を主宰。横山大観のもと、80人の画家が結集し、およそ200点が出品されました。喜七郎は約100万円を負担して、渡航費やイベントなど全額をまかないました。現在の貨幣価値でいえば、50億とも100億ともいわれます。

欧米各地から観客が訪れ、大観の手記によれば、その数16万5000人(喜七郎の側近によれば、8万人)。喜七郎は出品作の大半を買い上げました。

戦火をくぐり抜けて

その後、第二次世界大戦下の東京は、度重なる空襲に遭いました。喜七郎の嫡孫で現館長の大倉喜彦氏の言葉です。

「今も私の胸に焼き付いているのは、戦災で焼け野原となった屋敷跡にぽつんと生き残った大倉集古館の姿です。あの光景を思う時、私どもが受け継いできたこれらの文化遺産が、平和裡へいわりに後世へと伝承されていくことを願ってやみません」

戦後、喜七郎は大倉集古館の隣にホテルオークラを設立。開業の翌年の昭和38年(1963年)、80歳で世を去りました。

大倉集古館は、設立100年を超えた2019年9月、約5年半の改修工事を経てリニューアルオープンしたばかりです。

大倉集古館公式サイト

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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