都会には、隠れ家のような美術館が点在しています。それは、慌ただしい日常から私たちを解き放ってくれるオアシスのような存在。
美術館の歴史は、美術を愛した人たちの歴史です。代々守り伝えた家宝、あるいは、ビジネスの傍ら私財を投じて集めた名宝を公開することで、芸術の恵みを広く分かち合おうとした人々。シリーズ「都会の美術館探訪」では、彼らの豊かな人生と美術館をご紹介します。
アートが深く根差した社会は豊かです。日本のビジネスパーソンに美術愛好家がもっと増えることを願って――。
東京大学・駒場キャンパス近くの閑静な住宅街に、国の有形文化財に登録されている日本民藝館の重厚な建物があります。
玄関でスリッパに履き替えて、花が飾られた静かな館内へ。日本を代表する思想家・柳宗悦(通称:そうえつ)が集めた所蔵品は、国内外の陶磁器、染織品、木漆工品、絵画、金工品、石工品、竹工品など約17,000点に及びます。
宗悦は、明治22年(1889年)、退役海軍少将・柳楢悦の三男として現在の東京・港区で生まれ、わずか2歳で父を亡くしました。初等科から学習院に学び、高等科を卒業する頃、同窓の志賀直哉や武者小路実篤らによる文芸雑誌『白樺』の創刊に、最年少で参加。この頃、生涯の友となるイギリス人陶芸家のバーナード・リーチと知り合います。その後、東京帝国大学哲学科を卒業しました。
『白樺』は人道主義・理想主義・個性尊重を唱え、大正デモクラシーにも大きな影響を与えました。宗悦は得意の語学を生かして、誌面でロダンやセザンヌなどの西洋美術を紹介し、白樺派主催の展覧会でも、優れた手腕を発揮しました。
大正3年(1914年)、声楽家の中島兼子と結婚して千葉県の我孫子へ転居。のちに朝鮮陶磁研究の第一人者となった浅川伯教が朝鮮陶磁器を手土産に訪れ、宗悦はその美しさに魅了されます。植民地下の朝鮮半島を旅して、優れた工芸を生み出した人々に心を寄せ、ときに日本政府の施策を批判しました。やがて、朝鮮の日用雑器を展示する美術館を現地に開設。宗悦は、無名の職人が作った日常品のなかに大いなる美を見いだしていたのです。
その視点は、日本国内にも向けられました。朝鮮陶磁の収集のために訪れた甲府で、江戸時代に日本各地を巡った僧侶・木喰がこの地で民衆のために彫った仏像に心奪われ、以降、日本各地の手工芸品や民画を収集するようになります。また、友人の陶芸家・濱田庄司がイギリスから持ち帰った古陶「スリップウェア」や、宗悦が関東大震災後に一家で移り住んだ京都の朝市で出会った「下手物」(粗雑で安物の工芸品)にも関心を広げました。
大正14年(1925年)、濱田と河井寛次郎とともに、「民衆的工芸」を意味する「民藝」という言葉を生み出します。翌年には、同じく陶芸家の富本憲吉を加えた4人の連名で、民藝の展示・研究の拠点となる美術館の設立趣意書を発表しました。
宗悦は、その3年後に刊行した『工藝の道』に、民藝の特性を記しています。
第1に、鑑賞が目的ではなく、実際に使うために作られており、それによっておのずと美しい形になっていること。第2に、作った人の銘が入っていないこと。つまり、職人が自らの名を誇るのではなく、仕事の質で勝負していること。第3に、庶民の需要に応えるため大量に作られ、安価で売られたこと。第4に、生産地の風土や生活様式に根差して作られたこと。そして第5に、複数の職人が関わる共同作業で作られたこと。
こうした執筆や展示を通して、宗悦は民藝という概念を世に広めました。また欧米を旅して知見を広げ、ハーバード大学では講義や展覧会を行っています。
日常雑器といえども、収集や美術館の建設には財力が必要です。宗悦は、大原孫三郎(倉敷紡績社長・大原美術館創設者)や山本為三郎(アサヒビール創業者)など、民藝運動に共感し、お金は出しても口出しはしない、粋なパトロンに恵まれました。
ついに、昭和11年(1936年)、東京・駒場に日本民藝館を開館。自ら建物の設計に携わり、初代館長に就任します。ここを拠点に展覧会の開催、全国での調査・収集、執筆活動を行いました。戦時中には一時閉鎖し、所蔵品の疎開や病気などの苦難を経験。戦後、文化功労者として顕彰されました。
宗悦は晩年、仏教の他力本願に基づく独自の思想「仏教美学」を説きました。民藝の美は、作り手の自力だけで作られるものではなく、自然の恵みや伝統の力といった他力を受け取って、素直な心で作ることで初めて生まれるというのです。
また、知識や先入観で物を見るのではなく、自由な心と眼で見ることが大切だと考えました。「直観」、つまり、人間が持って生まれた素直に美を感じとる力がなければ、本当の美を見いだすことはできないということです。
直観を土台として思索や行動を重ね、囚われのない心を大切にした宗悦。アイヌや沖縄などの文化にも魅了され、その保護を訴えるとともに、進歩や文明という価値観に囚われた世間の認識を批判しました。
民藝館では現在、折々に企画展が行われ、宗悦の幅広く深遠な眼差しを追体験できます。日本各地の古陶磁、東北地方の衣裳、アイヌ衣裳、大津絵、木喰仏、沖縄、朝鮮半島、台湾の先住民族、中国、そして英国の工芸品。さらに、民藝運動に参加した陶芸家のリーチ、濱田、河井、染色家の芹沢銈介、版画家の棟方志功らの特集展示も人気です。
世界的ファッションデザイナーの三宅一生氏は、海外の友人をしばしば、民藝館に案内するとか。宗悦の直観に選ばれた日常品は、日本の美やデザインを理解する指針となるのでしょう。
本館と通りを隔てて立つ家屋は、宗悦自ら設計したもので、昭和36年(1961年)に72歳で亡くなるまでここに暮らしました。一家団欒や芸術家たちとの談笑の場だった食堂や、執筆に打ち込んだ書斎には、家主の面影が残ります。なお、宗悦の死後、2代目館長は濱田庄司、3代目は長男でプロダクトデザイナーの柳宗理が務めました。
ミュージアムショップもお見逃しなく。毎年開催される日本民藝館展の入選作を中心に全国の優品がそろい、宗悦が提唱した工藝のある生活が早速実践できそうです。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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