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2020.9.23

【大人の教養・日本美術の時間】都会の美術館探訪 vol. 2 永青文庫

永青文庫外観(永青文庫提供)

都会には、隠れ家のような美術館が点在しています。それは、慌ただしい日常から私たちを解き放ってくれるオアシスのような存在。

美術館の歴史は、美術を愛した人たちの歴史です。代々守り伝えた家宝、あるいは、ビジネスの傍ら私財を投じて集めた名宝を公開することで、芸術の恵みを広く分かち合おうとした人々。シリーズ「都会の美術館探訪」では、彼らの豊かな人生と美術館をご紹介します。

アートが深く根差した社会は豊かです。日本のビジネスパーソンに美術愛好家がもっと増えることを願って――。

木々に囲まれた館で名家の宝物を堪能する

東京の有楽町線・江戸川橋駅を降りて、神田川を渡り、目白台の高台へ。江戸時代末、肥後熊本藩・細川家が、この地に下屋敷を構えました。明治維新後、細川家は侯爵に叙せられ、ここを本邸とします。

昭和25年(1950年)、16代当主・細川護立もりたつは、代々伝わった武具、書画、茶道具、能道具、調度品などの散逸を防ぎ、一般に公開するため、永青文庫を設立しました。木々に囲まれた建物は、かつて細川家の家政所(事務所)でした。所蔵品には国宝8件、重要文化財34件が含まれます。

細川護立(鮫島圭代筆)
戦国の世を見事に立ち回った細川家の足跡

細川家の始祖・細川頼有よりありは、南北朝時代、足利尊氏のもとで戦功をあげた武将です。尊氏が室町幕府を開いたのち、細川家には複数の分家が生まれ、のちに肥後熊本藩主となる細川家は、そのなかで唯一、現在まで命脈を保ちました。

初代当主・藤孝ふじたかは、初め13代将軍・足利義輝よしてる、のちに織田信長に仕えました。藤孝の息子・忠興ただおきは15歳のとき、弟の興元おきもと とともに敵城一番乗りを果たし、その手柄を褒める信長の手紙が伝わっています。

天正10年(1582年)、本能寺の変で、主君・信長を討った明智光秀は、その直後に細川親子に加勢を求めました。忠興が光秀の娘・たま(のちにキリスト教徒となり、洗礼名ガラシャ)と結婚していたためです。しかし、細川親子は信長への忠誠を貫き、光秀の要請を拒絶。藤孝は隠居して幽斎ゆうさいと名乗り、家督を継いだ忠興は妻の玉を2年間幽閉したのです。その後、豊臣秀吉が光秀を討ちました。永青文庫には光秀や秀吉の手紙も伝わります。

慶長5年(1600年)9月の関ケ原の合戦では、忠興は徳川家康率いる東軍で武勲を立てました。この時、敗れた西軍の石田三成を生け捕りにしたと報告する、家康からの手紙が残ります。

それに先立つ7月、忠興が家康に従って上杉征討に出ている隙に、石田方が忠興の妻ガラシャを人質に取ろうとしました。ガラシャはこれを拒み、38歳で自害。聡明さをしのばせる自筆の手紙や、夫のために仕立てた衣服が伝わっています。

石田方は続けて、幽斎が隠居する京都の丹後田辺城に1万5000人の軍勢を差し向けました。細川軍の大多数は上杉征討で不在であり、城に集まった兵はわずか500余り。そんな中、八条宮はちじょうのみや智仁親王としひとしんのうが幽斎に和睦と開城を勧めます。

文武両道で名高い幽斎は、和歌の世界で最も権威ある「古今伝授こきんでんじゅ」の唯一の継承者でした。この戦の前から次なる継承者である親王に古今伝授を始めており、親王は、幽斎を失えば、日本の歌学が滅びると危惧したのです。

幽斎は討ち死にも覚悟し、古今伝授の完了を示す証明状を親王に送って和睦を断りました。それでも親王はあきらめず、兄・後陽成ごようぜい天皇の勅命により、2か月の籠城戦を経て、幽斎はついに城を明け渡します。

関ケ原の戦い後、家康は細川家の一連の武功をたたえ、のちに忠興は豊前小倉藩39万9000石の大名となりました。

和歌に加え、茶と能も武将のたしなみであり、永青文庫には能道具のほか、忠興が師事した千利休ゆかりの茶道具も伝わっています。

3代当主・忠利ただとしの時代には、肥後熊本藩主・加藤家の改易に伴って、細川家は国替えとなりました。忠利はこうして寛永9年(1632年)、54万石の大名となります。忠利はまた、晩年の剣豪・宮本武蔵を熊本に迎え、その美しい水墨画が細川家に伝わりました。

江戸時代半ばの8代当主・重賢しげたかは「肥後の鳳凰ほうおう」と呼ばれた名君で、約3年のうちに改革を推し進め、藩政を立て直しました。その後は学問、特に当時流行していた博物学に熱中し、生物図鑑を数多く残しています。

10代・斉茲なりしげは絵画好きの殿様として知られ、中国画や古絵巻を収集し、自らも絵師顔負けの作品を描きました。

重要文化財 菱田春草 「黒き猫」 明治43年(1910)
永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)
「美術の殿様」16代護立

そしていよいよ、永青文庫の創設者にして近代有数の美術コレクター、16代当主・護立の登場です。

明治生まれの護立は、侯爵家の子弟として学習院に通い、中等科在学中、肋膜炎ろくまくえんを患います。療養中、熊本出身のジャーナリスト・阿部無仏あべむぶつから、江戸時代の禅僧・白隠はくいんが内観法を習得して心身の病を乗り越えた体験記『夜船閑話やせんかんな』を薦められました。護立はこれを頼りに3年ほどで病気を治し、その後、ぎょろりとした目の達磨だるま図で有名な白隠の書画約300点を集め、最大規模のコレクションを築きます。

また、幼い頃から刀剣に魅了され、代々細川家に仕えて刀剣を手入れしていた西垣家の西垣四郎作しろさくから刀剣鑑賞を学びました。17歳の時に初めて刀剣を小遣いで購入。以来、多くの名刀を収集します。

さらに、幼い頃から漢籍を読んだという護立は中国文化にも憧れを抱きました。病を克服した18歳の時、初めて北京を訪れます。以来、一流の学者との交流を通して優品を収集しました。中でも有名な「金銀錯狩猟文鏡きんぎんさくしゅりょうもんきょう」は、ひと目で気に入って購入したといい、「細川ミラー」と称され、のちに国宝に指定されました。

24歳の時には、まだ無名だった横山大観や菱田春草ひしだしゅんそうら日本美術院の日本画家の作品を初めて購入。また、学習院高等科時代の友人・志賀直哉や武者小路実篤が創刊した文芸誌『白樺』に資金援助や投稿を行い、誌面や白樺派主催の展覧会で紹介されたセザンヌやルノワールの作品を購入・展示して、日本の洋画界に貢献しました。洋画家の安井曾太郎や梅原龍三郎とも親交があり、美術史家・児島喜久雄とともに画家たちに声をかけて、皆で大観の姿を写生したこともありました。芸術談議に花が咲いたことでしょう。

細川護立(永青文庫提供)

現在の永青文庫理事長で18代当主の護熙もりひろ氏によれば、祖父・護立は自宅で毎日のように絵を掛け替えていたとか。「美術の殿様」と親しまれたその面影を探しに、お近くの方はぜひ永青文庫にお出かけください。

※永青文庫では11月8日(日)まで、 「永青文庫名品展 ―没後50年“美術の殿様”細川護立コレクション―」 が開かれています。

※展覧会情報は「開催概要 ( ↓ ) 」をご覧ください。

永青文庫美術館サイト

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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