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2020.2.6

【大人の教養・日本美術の時間】1か所から大量出土 銅鐸は何に使ったの?

銅鐸、銅剣、銅矛、銅戈(鮫島圭代筆)

包丁やはさみなど、私たちの身の回りには金属製の道具がたくさんありますよね。

世界最古の文明といわれるメソポタミア文明には、紀元前数千年前から金属器を造る技術がありました。シルクロードを通って中国へ、青銅器、続いて鉄器の製造技術が広まりました。

朝鮮半島を経て日本に伝わったのは、紀元前にさかのぼる弥生時代のことです。金属器は、それまで使われていた石器よりもはるかに丈夫で鋭利でした。

日本には当初、鉱石から金属を取り出す技術がなかったため輸入に頼っていましたが、ほどなく国内でも製造が始まったと考えられています。

青銅器は武器から祭祀の道具に

鉄は、硬くて切れ味が鋭いため、農具や武器などの実用品として広まりました。稲作が普及するなかで、農作物の生産性を上げ、集団間の争いにも威力を発揮して、階層社会を形作る大きな原動力になったのです。

一方、青銅とは、銅にすずや鉛を加えた合金のことです。くすんだ青緑色のイメージがありますが、これは年月を経て酸化して変色したもので、本来は黄金色あるいは白銀色です。古代の人々はその輝きに魅了されたことでしょう。

青銅器の名前には、「銅鏡どうきょう」「銅剣どうけん」「銅矛どうほこ」「銅戈どうか」など、「銅」の文字だけが入っているので紛らわしいですが、青銅製です。

青銅製の武器は鉄製の武器に比べると弱いため、日本で武器として使われたのは短期間で、間もなく祭祀さいしで使われる道具となったようです。武器としての実用性がいらなくなったため、造りは薄く、もろくなった一方、祭りの場にふさわしく大型化し、迫力ある姿に変化しました。

青銅器を使った祭りはどんな様子だった?

弥生時代の人々はこうした青銅器を使って、どのような祭りを行っていたのでしょう。具体的にはわかりませんが、多くの人が集まって稲の豊作や平和な暮らしを祈ったと考えられています。

祭りで使われた青銅器といえば、「銅鐸どうたく」も有名です。お寺の釣り鐘を平たくしたような形です。

そのルーツは古代中国にあった青銅製の小型の鈴といわれ、それが朝鮮半島を通って日本に伝わり、銅鐸として独自に進化したと考えられています。

当初は、上からつり下げて、銅鐸の内側に下がるぜつという棒を振って音を鳴らすものでした。

それはどんな音だったのでしょう。神聖な音色でその場をきよめたのでしょうか。稲魂いなたま(稲の中に宿る神霊)を招くために鳴らしたともいわれます。

ちなみに、復元された銅鐸を鳴らす体験ができる博物館もあります。気になるかたは調べてみてはいかがでしょう。

やがて銅鐸は、鳴らすものから、仰ぎ見るものへと変化したようです。大型化してより荘厳な雰囲気になり、つり下げる必要がなくなったので鐘の上部の突起は飾りとなり、また全体に文様をつけることもありました。

一つの遺跡から銅剣358本! 古代出雲に思いを巡らせて…

青銅器の製造には、高度な技術と多大な労力が必要です。

まず、山から銅を含む鉱石を掘り出し、1000度近い高温で長時間熱して銅を取り出します。そして錫や鉛を混ぜて青銅を造ります。それを溶かして鋳型に流し込んで成形したり、熱を加えながら叩いて変形させたりして、完成に至るのです。

それでも弥生時代の人々は青銅器にこだわり、祭祀の中核にすえました。その金色の輝き、重厚感、希少価値は特別だったのでしょう。

青銅器を使う祭りは、九州北部と近畿地方から西日本各地へと広まったようです。出土品の分布図を調べると、銅矛と銅剣を使った地域と、銅鐸を使った地域がモザイク状に複雑に入り組んでいます。一方、関東まではほとんど行き渡らず、しかし青銅器への憧れから、形をまねた石器を祭りで使う地域もあったようです。

銅鐸はたいてい、墓の埋葬品としてではなく、人の住む平地から少し離れた、山の斜面や丘の上などに埋められた状態で発見されています。権力者個人の所有物ではなく、祭りで使うムラの宝だったのですね。これまでに約500個発見されており、その多くは高さ30センチ以上、最大のものは高さ140センチを超えます。

1984年、島根県出雲市の荒神谷こうじんだに遺跡で、南向きの谷の急斜面から、銅剣358本が4列に整然と並べられた状態で見つかり、新聞の一面を飾りました。それまで日本で発掘されていた銅剣の総数を1か所で上回る驚異的な数だったのです。

国宝 銅剣・銅鐸・銅矛(部分)島根県出雲市 荒神谷遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)

翌年にはその近くから銅矛16本、銅鐸6個が発見されました。銅鐸は3個ずつ向かい合わせに、銅矛は互い違いに置かれていたそうです。

1996年には、3キロほど離れた加茂岩倉かもいわくら遺跡で39個もの銅鐸が出土しました。1か所から出土した銅鐸の数としては全国最多です。

どうやら古代の出雲には、大量の青銅器を作ることのできる有力な集団がいたようです。なるほど、日本最古の歴史書、『古事記』と『日本書紀』にも出雲を舞台としたエピソードが数多く出てきます。

出雲各地のリーダーたちは折々にこの地に集まり、銅剣や銅鐸を地中から取り出して儀式を行い、再び埋め直していたのかもしれません。そして、弥生時代の終わりにどんな社会変化が起きたものか、祭りが行われなくなり、埋められたままになったと考えられています。

発掘された銅鐸などを見ながら、どんな儀式だったのか、なぜある時から行われなくなったのか、自由に想像すると楽しいですね。

東京国立博物館で2020年3月8日(日)まで開催中の日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」では、荒神谷遺跡の出土品も展示されています。ぜひ実物を見ながら、想像をめぐらせてみてください。

【日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」】

東京国立博物館 2020年1月15日(水)-3月8日(日)

公式サイトはこちら

https://izumo-yamato2020.jp/

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

開催概要

日程

2020.1.15〜2020.3.8

9時30分~17時
※毎週金曜、土曜日は21時まで開館(入館は閉館の30分前まで)

会場

東京国立博物館 平成館
〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9

料金

一般1600円、大学生1200円、高校生900円など

休館日

月曜日、2月25日(火)
※2月24日(月・休日)は開館

お問い合わせ

03-5777-8600(ハローダイヤル)

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