「明治、大正、昭和、平成、そして令和の時代にも続くボンボニエールの物語」。50回にわたって紡いできたお話も、今回でいよいよ、最後となる。最後に紡ぐのは To be continued(続く)の物語。
令和元年(2019年)10月22日、天皇即位礼饗宴の儀が行われ、ボンボニエールが下賜された(【ボンボニエールの物語・特別編】令和初のボンボニエール)。その半年後、世界は新型コロナウイルスの感染拡大に見舞われ、いまだその渦の中にある。その間、皇室行事も延期・縮小され、令和2年(2020年)4月19日に予定されていた立皇嗣の礼も約7か月延期された。同年11月8日にようやく、参列者を約350人から50人規模に縮小し、祝宴「宮中饗宴の儀」は中止としたうえで挙行された(【ボンボニエールの物語vol.33】初の「立皇嗣の礼」にまつわるボンボニエールの物語)
儀式は縮小されたが、皇室の御慶事である。作らないわけにはいかない。ということで、ボンボニエールは通常通り制作された。立太子の礼の際には、皇太子が着用する黄丹袍の文様である「窠に鴛鴦文」を意匠としたボンボニエールを下賜することがお約束だが、意味合いが同じである立皇嗣の礼も、同じく「窠に鴛鴦文」のボンボニエールが作られた。
儀式・宮中晩餐会参加者には(恐らくは予定者にも)、陶磁器製のボンボニエールが、御内宴参加予定であった人には、銀製のものが、翌年(2021年)3月になって下賜されたという。冒頭の写真がそれである。
皇室由来のボンボニエールは明治22年(1889年)に登場し、瞬く間に皇室・皇族のみならず、華族家、企業、さらには一般家庭に至るまでに、その慣習は拡大し、大流行となった。昭和20年(1945年)までの間に、数百種の意匠に富んだボンボニエールが製造された。
しかし、終戦後、皇族は皇籍を離脱し、華族制度もなくなった。戦後の日本は、まずは暮らしを立て直すことが先決であった。そういった時代が続き、再び日本が豊かな国となる頃には、「ボンボニエール」という慣習も言葉も人々から忘れ去られた。もちろん、これまで見てきたように、昭和時代も、平成を迎えても、皇室ではボンボニエールが作られてきたのだが、人知れず続けられた雅な慣習というような立ち位置になっていた。
ところが、ここ数年、「ボンボニエール」という名称が再び認知されてきたのである。
理由はいくつか考えられるが、その一つは、チョコレート・メーカーがバレンタインデー商戦で「ボンボニエール」を売り出していることかもしれない。容器とチョコレートを別々に購入しなければならないというのは、ボンボニエールのお約束に反しているのだが、そんなことは関係なく、見た目の可愛さから、ソーシャルメディアでも話題となっていた。
コロナ禍で売り出されたボンボニエールもある。その名も「アマビエボンボニエール」。有田焼の香合形で、蓋表に岩花鳥文とアマビエを配し、蓋を取ると、身の底面にもアマビエがある。こちらも中身はなく、容器のみであるが、「ボンボニエール」として販売されている。直径10センチメートルほどで、重量が280グラムもあり、「高級ふりかけの贈答品容器」を彷彿とさせる。
一方、 金平糖メーカーが販売している彦根土産の「ひこにゃんボンボニエール」は、金平糖の中身を伴う正しいボンボニエールである。そのほかにも、可愛らしい容器がたくさん販売されるようになった。結婚式など、慶事の際の引き出物という正しい使い方も多くなされているようである。
菓子器以外でも、ケーキショップにレストラン、マンションから競走馬まで、「ボンボニエール」という言葉を含む名称をそこここで見ることができるようになった。
ここまでボンボニエールが一般名詞化した、その要因の一つに、この「ボンボニエールの物語」があるのだとしたら、筆者としてはうれしい限りである。
これからも数多くのボンボニエールが作られ、様々な物語を紡ぎ続けてくれることを願っている。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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