この連載では、平成の天皇の即位30年記念ボンボニエールを最初に取り上げ、「明治、大正、昭和、平成、そして令和の時代にも続くボンボニエールの物語。 今回はその最初の物語――それは明治22年(1889年)に始まる」とした「【ボンボニエールの物語vol.2】明治22年 最初の物語」で、皇室初のボンボニエールをご紹介した。それから約2年がたつが、その連載もあと2回で終了する。連載を始めてから、物語を紡ぐことで知り得たことが多くあった。今回はそのうち、「ボンボニエールの最初の物語―その後にわかったこと」のお話である。
皇室最初のボンボニエールが下賜されたのは、明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布式の日。この日、宮中晩餐会の食事が終わると、招待客はいつも通り、別の間に席を移動し、コーヒーやリキュールなどを飲みながら懇談した。その際には、プティフール(一口サイズのお菓子)も供されるが、これがいつもと違っていた。
その日のプティフールは「二千五百四十九年紀元節ノ文ヲ彫繍」した「銀筐綵嚢」に「菓ヲ盛ル」と記録されている。「銀筐」は銀の箱、「綵嚢」は美しい模様の絹織物の袋のこと。つまり、食後のプティフールが皿や盆ではなく、「二五四九紀元節」という文字が彫られた銀の箱や同文が刺繍された美しい織りの袋に入って下賜されたということである。
その日のプティフール入れに該当する工芸品は、数種類確認されている。そのうち、「銀筐」に当たるボンボニエールについては、vol.2 でご紹介している 。今回ご紹介するのは「綵嚢」に当たる袋の方である。
その袋は、紫色の絹地の上に金糸で皇室の御紋が刺繍されている。裏側に「二五四九紀元節」の金糸刺繍がある。現在のところ、2か所で所在が確認されている。いずれも、後年制作されたと思われる器が中に入れられているので、当日下賜されたのは、菓子が入ったこの袋のみであったと推測している。
この「銀筐綵嚢」は当日の招待客数に見合う1400個が用意された。1400個もの工芸品をオリジナルデザインで作るには、時間がかかる。ボンボニエールについてはおそらく、諸般の事情から、準備時間があまりなかった。そこで、数種類の既製の工芸品に菊御紋と「二五四九紀元節」銘を彫る、刺繍をするということで、憲法発布式の記念品であることを明記することになったのではないだろうか。
明治皇室が初めてオリジナルデザインでボンボニエールを制作したのは、明治27年(1894年)3月9日の「明治天皇大婚25年祝典」の際である。大婚25年祝典とは、銀婚式のこと。銀婚式はもちろん、西欧由来の習慣で、それを滞りなく行うことで、日本の皇室が西欧式儀礼を身につけたことを示す意味があった。例えば、天皇、皇后が同じ馬車に乗り、人前で手をつなぐというようなことである。
銀婚式ということで、何もかもが銀尽くしだった。当日、皇后がお召しになった、高島屋当主・飯田新七が手掛けたドレス(中礼服)の前面は、銀糸やスパンコールによる刺繍で菊や女郎花などの秋草が表され、脇から背面にかけては、小葵に菊模様が銀糸で織り出された絹で仕立てられている。
この祝典の饗宴に招かれ、陪席した621人には「蓋に岩上の鶴亀を付した銀製菓子器」が下賜され、立食の宴に参加した1208人には「鶴亀の彫刻ある銀製菓子器」が配られた。このことは「最初の物語」ですでにお伝えしたのだが、このほど、その作者が判明した。後に帝室技芸員となる鈴木長吉である。長吉は蝋型鋳造の名人で、鳥の置物を得意とした。長吉作の「鷲置物」「十二の鷹」は重要文化財となっている。
長吉の名は、明治27年2月17日付朝日新聞朝刊に見られる。
「宮内省より鋳造家鈴木長吉へ銀製小形の亀四五百個の御注文あり 此外鈴木氏ハ銀婚式に関する銀製美術品数百個の注文を受け 目下職工をして昼夜を分かたず製造中の由なるが小形の亀等ハ当日御式に列する貴顕の人々へ下賜せらるゝものなりとぞ」
大婚25年祝典のボンボニエールは、冒頭の写真の鶴亀形。この亀の部分だけを 長吉 が作ったとは思えない。おそらくは、鶴部分も長吉の手になるものと思われる。鶴の尾羽の技巧を見るに、そう確信するのである。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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