天皇陛下は現在、赤坂御用地に住まわれ、宮殿での公務や宮中祭祀の際には、3キロメートルほど離れた皇居に通われている。両陛下と愛子さまは、皇居内の旧吹上仙洞御所の改修工事が終了次第、転居される予定である。
そもそも、その「皇居」とはどのような場所なのだろうか。今回は、皇居と宮殿にまつわるボンボニエールの物語である。
皇居のある場所は元々、江戸城であった。宮内庁三の丸尚蔵館の建て替え工事に伴う発掘調査で、約400年前の江戸時代初期とみられる江戸城の石垣が見つかったというニュースが最近あったことを覚えている方もおられると思う。
明治維新の後の明治2年(1869年)、この江戸城に天皇が京都から移居し、江戸城は「皇城」と呼ばれるようになった。ところが、明治6年(1873年)、旧江戸城は火災のため焼失し、旧紀州藩邸であった赤坂離宮を仮皇居とすることになった。古い木造建築であった紀州藩邸は、ドレスの裾が汚れると、訪れた外国の婦人たちから不評であったという。それだけが理由ではないが、旧江戸城西の丸の地に新宮殿を造営することとなった。
新宮殿は、明治21年(1888年)10月7日に完成した。
京都御所を模した和風の外観に洋風の内装という和洋折衷様式の木造建築である。当初は西洋建築案も出されたが、明治天皇の
「西洋人と御交際の場所は日本風の建物にてかならず日本美術を以てせよ、無論暖炉も設け厳寒洋人の困らぬ事にせよ、建築の屋根は瓦を廃して銅ぶきの事、木材は檜の事、戸障子の類はうるしを利用せよ、壁の張紙は日本風を以てせよ〔中略〕庭苑は総て日本風、装飾は総て日本風、謁見所会食所休息所玄関総て日本風、内部は洋風」
という意向により、正殿、鳳凰の間、豊明殿などの各部屋は、正倉院模様をはじめとする伝統的意匠の天井に洋風シャンデリアが飾られるという和洋折衷様式となった。
だが、この美しい宮殿は、昭和20年(1945年)5月の空襲で焼失してしまう。昭和天皇・皇后は御文庫と呼ばれる防空壕に避難しており、無事であった。
戦後の昭和36年(1961年)に至るまで、両陛下は戦時中に防空壕として使用した御文庫に引き続き住まわれていた。宮殿の新築計画もなかなか進まなかった。住まいの増改築や宮殿の新築の話が出るたびに昭和天皇は
「国民の住の問題がまだ解決せぬのに、又戦争犠牲者の対策が確立せられぬのに、再建はできない」
と話されたという。
新宮殿がようやく完成したのは、昭和43年(1968年)10月になってからである。新宮殿は、鉄骨鉄筋コンクリート造りの地上2階、地下1階、延べ面積2万4175平方メートル(7326坪)の建物で、正殿、豊明殿など七つの棟から構成されている。建築資材はほぼ国産であるという。
この新宮殿の落成を記念して、銅製丸形瑞鳥文ボンボニエールが配られた。このボンボニエールは、宮殿の屋根に使用した銅板の余材を材料として制作された。蓋表に描かれた不思議な模様はよく見ると鳥である。これは新宮殿の屋根の上、棟飾りとして造られた瑞鳥。めでたいことの起こる前兆とされる鳥である。
この瑞鳥は、佐渡(新潟県)出身の蝋型鋳金の人間国宝・佐々木象堂氏がデザインした作品で、昭和33年(1958年)の日本工芸展に出品され、最高賞を受賞したものをオリジナルとしている。
蝋型鋳金は、ろうを竹べらや手先で細工して原型を作り、鉱物用の真土で包み込み、高温で焼き上げることで、ろうを鋳型から流出させ、その空洞に溶解した金属を流し込むことで完成させるという技法である。
瑞鳥は今も宮殿の屋根の上にいて、令和の即位の式典も見守っていた。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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