前回もお話ししたように、ボンボニエールは明治中期に出現し、大正から昭和初期にかけて盛りを迎えた。その素材は「銀のボンボニエール」に代表されるように、銀がほとんどを占める。それは、明治維新で職を失った金工職人の技を守り、技術を海外へ広める意図があったことに加え、西洋人は銀が大好きだったことなども要因と考えられる。しかし、vol.5 でご紹介したように、明治期には、漆塗りのボンボニエール(【ボンボニエールの物語vol.5】明治のボンボニエール 有栖川宮家の物語) も作られていたし、なんと、紙製のボンボニエール(【ボンボニエールの物語vol.8】大正9年 はかない紙と強い愛の物語) があったこともご紹介した。
昭和12年(1937年)に日中戦争が始まると、さまざまな制限が出てきて、物資の不足も顕在化してきた。昭和15年には、いわゆる「贅沢禁止令」が出され、銀製品などの製造・加工・販売も禁止された。そんな時代に、苦肉の策で作られたボンボニエール(【ボンボニエールの物語vol.28】戦時下でもボンボニエールは作られていた、の物語)もご紹介した。
今回ご紹介するのは、戦後の昭和24年(1949年)に作られたボンボニエール。なんとも珍しいプラスチック製である。時代から考えても、銀で作ることは難しかったと思われるが、そこにはどんな物語があるのだろうか。
このボンボニエールは、順宮厚子さまが学習院女子高等科卒業記念の茶話会に際して、同級生に贈られたものである。
厚子さまは昭和6年(1931年)3月7日、昭和天皇・香淳皇后の第4皇女としてお生まれになった。5歳を迎えて、両親のもとを離れ、皇居内の呉竹寮で、姉妹と共に養育された。生まれてすぐに両親のもとから離れて養育された昭和天皇は、自分の手元で子供たちを育てることを熱望されたが、周囲からの要望により、やはり親子別居の養育方針となった。天皇・皇后はこの方針に従われることになったが、いつでも子供たちに会えるようにと、皇居内旧本丸に建てられたのが、呉竹寮である。
厚子さまは学習院初等科、学習院女子中等科・高等科に学ばれ、昭和24年に卒業。学習院女子短期大学に進まれ、卒業された後、旧岡山藩主・旧侯爵家の池田隆政と結婚された。
さて、厚子さまが卒業記念茶話会で贈られたプラスチック製のボンボニエール。全体は緑色で、蓋部分は透明クリスタルのような仕様になっている。その蓋部には、厚子さまのお印である「菊桜」があしらわれている。桜は八重桜で、学習院女子部の校章でもあるので、皇室と学習院を表しているようにも見える。
このボンボニエールのほかは、プラスチック製のものを見たことがない。現在では身の周りにあふれ、さらには、環境保護のために使用削減が叫ばれているプラスチックであるが、その歴史は意外と浅い。
19世紀にポリエチレンが発明されたのが、プラスチックの始まりという。その後、1870年にセルロイドが作られた。青い目をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド、と歌われてもいる。
20世紀に入り、ベークライト、ポリ塩化ビニル、ポリ塩化ビニリデン、ポリウレタン、ナイロンなどと、次々に発明されていく。
第2次世界大戦中は金属が軍事利用されたため、その代用品としてプラスチックが使われるようになり、需要が高まった。そして、戦後、その便利さから爆発的に利用されるようになった。我々が一般的に使用するようになってから、まだ70年ほどなのである。
厚子さまがこのプラスチックを新しい素材として選ばれたのか、代用品として使われたのか、定かではない。厚子さまは今年90歳になられる。岡山の地でご健勝に過ごされていると聞いている。ぜひ、ボンボニエールについてお伺いしてみたいものである。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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