明治の中頃に皇室・皇族において出現したボンボニエールは、大正から昭和初期には、皇室・皇族のみならず、華族家などでもその風習が倣われるほど大流行した。しかし、昭和20年(1945年)の終戦後、昭和22年(1947年)には、華族制度も廃止され、ボンボニエールはほぼ、皇室の慶事の際にのみ作られるものとなってしまった。あの装飾技巧に凝った作品群は、極めてエフェメラルな(はかない)ものであった。
このような時代変遷の中、現在に至るまでボンボニエールを制作し続けている家がある。それは、加賀百万石の前田家である。
学習院大学史料館のボンボニエールの中に、陶磁器製の香合様のものがあった。銀製ではなく、古色もない。「これはボンボニエールなのだろうか」と疑問に思っていた。内面をみると、「九谷金陽」との印がある。九谷焼であれば、前田家に関係するものかもしれないと、前田家第18代当主である前田利祐氏にうかがってみた。
NHKの大河ドラマ「利家とまつ」、ゲームの「信長の野望」「刀剣乱舞」などなど数多のコンテンツに、「槍の又左」こと、前田利家は登場している。超有名人であるが、ざっくりとおさらいをしておこう。
前田利家は天文7年(1538年)、尾張国の土豪・前田利昌の四男として生まれた。織田信長に小姓として仕え、槍の名手だったことから、「槍の又左」とも呼ばれ、数々の戦功をあげた。本能寺の変ののちは秀吉に仕え、能登国、加賀国、越中国の一部も加え、加越能3国83万石を領し、100万石の基礎を築いた。豊臣政権下では、五大老の一人にも数えられた。
利家死後の慶長4年(1599年)、2代利長は、家康に謀反の疑いをかけられるが、母・芳春院(利家の妻・まつ)を人質に差し出すことで疑いを晴らし、その後の関ヶ原の戦いで徳川方について領地を加増され、江戸時代初期には、加越能3国で119万石を領する大大名となった。
そこで生まれた九谷焼とは――。
加賀藩の支藩・大聖寺藩主前田利治は、明暦初期(1655年頃)に藩の殖産政策のため、藩士後藤才次郎を有田に派遣し、技能を習得させた。才次郎は帰藩後に窯業を始めるが、50年ほどで廃窯になったとされる。しかし、この時期の焼き物については、不明な点が多い。
文化4年(1807年)、加賀藩は京都から陶工・青木木米を招き、金沢の春日山にて、加賀九谷焼を再興させた。これを契機として、藩内各地に窯が築かれた。華やかな赤絵や金襴手に代表される再興九谷焼は加賀藩の殖産品となった。廃藩後の明治期には、日本を代表する輸出品となり、世界にその名を広めた。
前田家では明治以降、侯爵家として、慶事に際し、銀製ボンボニエールを制作配布していた。
最後の加賀藩主前田慶寧の娘・慰子は有栖川宮威仁親王妃となった。次の当主利嗣の夫人は、旧佐賀藩主鍋島直大の長女・朗子で、その妹の伊都子は、梨本宮守正王妃となっている。このように、前田家は皇族と姻戚関係が多くあり、早くよりボンボニエールが身近にあった。
冒頭で述べたように、戦後、華族制度は廃止され、他の華族家では、ボンボニエールを作ることがほとんどなくなっていった。しかし、前田家では、その後も内々の慶事の際には、ボンボニエールを制作し続けた。それは、前田家にふさわしく、かつて藩の殖産興業であった九谷焼窯で制作しており、しかも、絵のデザインは、歴代当主が自ら行っているという。
トップの写真は、利祐氏の両親、利建・政子の金婚式を記念するボンボニエールである。前田家の家紋である梅と、政子の実家、黒田家の家紋である藤を利建が描いたものである。
前田家のボンボニエールは、兼六園(金沢市)にある成巽閣に所蔵されている。成巽閣は加賀前田家の奥方御殿であった建物で、さまざまな展示企画を通じて、ゆかりの美術工芸品や資料などが公開されている。昨年秋に移転・開館した国立工芸館のすぐそばにあるので、そちらを見学がてら、いらしていただきたい。コロナが終息したら、ぜひ。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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