8月15日は終戦記念日。今年で75年を迎える。戦争を知らない世代が多くを占めるようになり、だんだんと戦争の記憶が薄れていってしまう。二度と同じ過ちを犯さないためにも、せめてこの時期だけでも反省と自戒を込めて、戦争関連の話をしよう。
砲弾形のボンボニエール
お祝い事の際に作られ、周りの方々と喜びを分かち合う菓子器であるボンボニエール。これまで見てきたように、そのお祝い事にふさわしい意匠でボンボニエールが制作されてきた。
どのボンボニエールも形が考えられており、伝統的な吉祥文なども施されて、まさに喜びの器であった。ところが、昭和の初め頃から、兵器をかたどったボンボニエールが出現するようになるのである。もっとも、この形とて、祝事をあらわす意匠であったのであるが。
最初に登場するのは、砲弾形。昭和6年(1931年)10月26日に北白川宮永久王が陸軍砲兵少尉に任官した際のボンボニエールである。昭和6年といえば、満州事変が起こった年である。昭和6年9月18日、中国東北部奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄の線路が爆破された。この事件を契機として日本軍は東北部を侵略し、翌年「満州国」を建国した。以後、15年に及ぶ日中戦争の発端となった事件が満州事変である。
そのような未来を暗示するかのような砲弾形。形は美しく、北白川宮永久王のものと思われるイニシャルがアンティーク風にデザインされ、刻印されている。永久王はこの数年後、非業の死を遂げるのだが、その話はまたいずれ。
魚雷形のボンボニエール
次に登場するのは、魚雷形のボンボニエール。朝香宮正彦王が昭和10年(1935年)1月28日に成年式を迎えられた際のボンボニエールである。朝香宮正彦王は、朝香宮鳩彦王の第2王子。昭和9年に海軍兵学校を卒業し、翌年、戦艦榛名への乗り組みを命じられた。こういった経歴から魚雷形のボンボニエールを制作したのであろう。プロペラ部分が動き、意匠と制作年代から八九式魚雷と思われる。このボンボニエールの刻印は「純銀宮本製」である。「宮本」とは、いまも銀座で皇室御用の銀器を制作販売している「宮本商行」のこと。その、宮本商行によれば、これは「葉巻入れ」であるという。確かに、金平糖を入れるより葉巻を入れる方が似つかわしいが、そうなると、ボンボニエールと呼んでよいのか、悩むところである。
ちなみに、正彦王の兄宮孚彦王成年式のボンボニエールは、あの複葉機形ボンボニエールである(⇒【ボンボニエールの物語vol.21】どこが開くの、このボンボニエール?の物語、【vol.22】ここが開くのか、このボンボニエール!の物語)。そうなると、複葉機形ボンボニエールも戦争関連のボンボニエールカテゴリーに入れてよいということになる。
戦車形のボンボニエール
そして、最後は極めつき、戦車形のボンボニエールである。複葉機形ボンボニエールの朝香宮孚彦王が陸軍歩兵少尉に任官された際のものである。複葉機が制作されたのが、昭和7年(1932年)。その翌年には、この戦車形である。どんどん戦時色が強まっていく。実は、私はこのボンボニエールを実見していない。なので、キャタピラーが動くのか、どこが開くのか、など不明である。
深みにはまるまで、立ち位置に気が付かないことがある。このボンボニエールを作っていた頃は、まだ戦争の悲惨さは遠いものであったのかもしれない。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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