新型コロナウイルス感染拡大防止のために外出を自粛し、時間にいくらか余裕がある方たちのために、今回と次回(vol.22)は「続きもの」にしようと思う。今回の出題について次回までに答えをお考えいただき、次回正解をお知らせする、ということでいかがだろうか。
何度もお話ししているように、ボンボニエールは菓子器である。なので、どこかが開いて、菓子が入れられなければならない。でも中には、どの部分が開いて菓子が入るのか、わかりにくいボンボニエールも存在する。
その筆頭が、冒頭に挙げた複葉機形ボンボニエールであろう。複葉機形は、私も大好きな一品である。
このボンボニエールは朝香宮孚彦王の御成年式のものである。朝香宮家は、明治天皇の特旨により久邇宮朝彦親王の第8王子鳩彦王が明治39年(1906年)に創設した宮家。その後、明治43年(1910年)に鳩彦王は明治天皇の第8皇女である富美宮允子内親王と結婚【ボンボニエールの物語vol.4「明治41年 皇女たちの結婚の物語」】、4人のお子さまたちにも恵まれた。
当時の皇族の多くは海外視察の途に就き、世界情勢を直接体験し、見聞を広めた。陸軍歩兵中佐であった鳩彦王も大正11年(1922年)にフランスに留学した。その翌年、同じくフランスに滞在していた義兄にあたる北白川宮成久王(明治天皇第7皇女周宮房子内親王の夫)の運転する自動車に房子妃とともに同乗してドライブの途中、事故にあい、成久王は即死。鳩彦王と房子妃も大けがを負った。日本にいて事故を知った允子妃はすぐに渡仏し、夫の看病にあたった。2人はフランスでの療養の間、アールデコ博覧会などを見学し、最新の芸術に触れたことで、帰国後宮邸を新築する際にはアールデコの装飾をふんだんに盛り込んだ瀟洒な建物を造ることになった。現在の東京都庭園美術館がその建物である。
事故で脚が不自由になった鳩彦王であったが、元々スポーツ好きであり、特にゴルフについては「ゴルフの宮様」と称されるほどの腕前であった。昭和5年(1930年)に鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県膝折村に移転したが、朝香宮に因んで2年後に村名を朝霞町に改称した。
ご両親の紹介が長くなったが、鳩彦王・房子妃の第1王子である孚彦王は大正元年(1912年)に誕生した。学習院初等科卒業後、陸軍士官学校に入学し、昭和8年(1933年)に卒業。元々、飛行機が大好きで、航空科配属を希望していたが、皇族が飛行機に乗るのは危険と言われ、歩兵となった。昭和18年(1943年)に、ようやく陸軍航空本部に転科となり、大空を自身で操縦捍を握って飛ぶという念願を果たした。
その孚彦王の昭和7年(1932年)の成年式を記念するボンボニエールが冒頭の複葉機形のものとなる。飛行機が大好きで、航空科配属を望んでいた頃の希望に満ちた意匠である。陸軍の九五式一型練習機だろうか。それともフランス製のスパッドⅦ型機だろうか。いずれにしても、この複葉機のどこが開くのだろうか。
次なるボンボニエールは和船形。学習院大学史料館のツイッターアイコンになっているほど人気のものである。帆も舵もちゃんと付いているところが、なんとも芸が細かい。和船についての説明は次回に。
ということで、二つのボンボニエール、どこが開くのかをお考え下さい。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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