皆さま、明けましておめでとうございます。今年も「ボンボニエールの物語」をよろしくお願いします。
皆さまはお正月をどう過ごされたのだろうか。お正月といえばお雑煮とおせち料理をいただいてのんびりと過ごす、という方が多いのかと思うが、皇室の方々の新年は大変お忙しい。天皇陛下がその年の最初の祈りを捧げられる元旦の「
陛下は元日の朝午前5時30分、
その後宮中三殿に拝礼。ここからは天皇・皇后両陛下、分刻みのスケジュールで新年行事に臨まれる。元日の皇族方、内閣総理大臣や各国の外交官から新年のあいさつを受けられる「新年祝賀の儀」は何回にも分けて行われる国事行為。1月2日は新年一般参賀、1月3日
このようにお忙しいからなのだろうか、新年にまつわるボンボニエールというものが見当たらないのである。そこで今回のボンボニエールは「宝船」とした。「宝船」は正月の縁起物の一つ。米俵や宝物を積み七福神が乗り込んだ帆掛け船の絵に、「ながきよの
とおのねぶりの みなめざめ なみのりぶねの おとのよきかな」という
実際にはこの宝船形ボンボニエールが出されたのは、昭和10年(1935年)4月に満洲国皇帝
戦前まで、新年の拝賀は最も格式が高い儀式で、女性皇族のドレスコードは大礼服(マント・ド・クール)と規定されていた。マント・ド・クールはデコルテが大きく開いた、袖なしか短い袖のドレスで、腰か肩から長いマント(トレーン)をつける。皇后陛下着用のマントは長さが390㎝、幅240㎝と決められていた。これだけ長いものを着用すると当然重さで前進することも困難なこととなる。
そこで登場するのが、引き裾を捧げ持つ
三島由紀夫の小説『春の雪』にも、少年たちが御裳捧持を務める様子が描かれている。「お裾持の小姓の服は、膝の下まで届く半ズボンと上着がそろいの藍の
皇后陛下が新年にマント・ド・クールを着用されるようになったのは明治20年(1887年)からである。これに伴って、御裳捧持は明治22年(1889年)より行われることとなった。以来昭和19年(1944年)に至るまで56年間延べ873名の少年たちが栄誉ある御裳捧持を拝命した。
太平洋戦争下では礼装の階級が下がり、大礼服ではなく、通常礼服であるローブ・モンタント(昼の正礼装服)着用で新年の儀式が行われた。ローブ・モンタントには引き裾はないが、例年通り御裳捧持者は任命されて「あたかもあるように」皇后陛下や妃殿下の後ろを歩いたという。
そして、儀式を終えた後に御裳捧持者には記念品としてボンボニエールではなく、銀の時計が下賜されたのである。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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