近世水墨画の最高傑作とされる長谷川等伯(1539~1610年)筆の国宝「松林図
高精細のデジタル鑑賞が楽しめる「TSUMUGU Gallery」を通して作品の魅力に迫るシリーズの最終回は、長谷川等伯自身の波乱に満ちた生涯について、東京国立博物館研究員・松嶋雅人さんの解説をもとに紹介する。
長谷川等伯は能登・七尾(石川県)の出身。長く画壇に君臨した狩野派の出ではなく、地方から京都に出て行き、のちに豊臣秀吉に重用され画壇のトップに立った。当時としてはまさに異例の出世をとげ、「画壇の秀吉」とも称される。
狩野派がもともと武家に使えた専門絵師だったのに対し、長谷川等伯は若い頃、北陸で仏画を描いていた。歴史的には仏画の方が圧倒的に古く、古典的な着色絵画の技法を学んだ人物が、京都に出て水墨画を描くようになったといえる。
「古典と先端を融合した形で絵画を作ることができたからこそ、その時代には非常に新しいものとして映った。だから秀吉は等伯を重用するんです」。松嶋さんは説明する。
象徴的なできごとが、55歳で祥雲寺(現・智積院)の「
楓図は、華やかに彩られた楓の木と、咲き誇る秋草が目に鮮やかな作品。ほぼ同時期に描かれたモノクロの松林図屏風とは対照的な、桃山期らしい豪華
だが、時代が徳川の世へ移ると環境は一変する。等伯は晩年、72歳で江戸に向かうが、将軍への目通りはかなわず、失意のうちにその生涯を閉じた。
その後、江戸時代を通じて、長谷川等伯の名前は一切消えてしまう。文献にも、重要な絵師としてはまったく出てこない。
「まるで歴史的に抹消されたかのようで、誰も等伯のことを知らなくなった」と松嶋さん。その裏には、長谷川一派に画壇の地位を脅かされた狩野派の影がちらつく。
一方で、忘れられた等伯の作品は、評価されない分、海外にも流出しなかった。結果的に大量の作品が国内に残ったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
等伯の再評価が進んだのは、ごく最近のことだ。
戦後、等伯が七尾時代に「信春」という名で仏画を描いていた日蓮宗の絵師だったことが確認された。昭和時代の終わり頃には、国鉄(当時)によるキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」などで足元の日本文化を見つめ直す風潮が広まり、等伯の作品は日本らしい水墨画として、新たに注目を集めることとなった。
さらに、2010年以降の10年ほどで、新潟から福井にかけての北陸地方の寺院では、等伯の父や兄、息子ら一族の絵が発掘されており、等伯の前半生の姿がよりいっそう明らかになりつつある。
人々を魅了してやまない画家・等伯。その生涯に迫る探求は、今も現在進行形で続いている。
高精細のデジタル鑑賞を楽しめる「TSUMUGU Gallery」では、松林図屏風のストーリーとともに細部までクローズアップして作品の魅力を味わえます。ぜひご覧ください。
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