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2024.3.27

「長唄はミックスジュース」― 人間国宝 杵屋東成

「いい声を保つ秘訣ひけつは十分な睡眠とうがいの徹底ですね。時には昼過ぎまで眠っていますよ」と語る杵屋東成。今月〔2024年3月〕23日には京都・先斗町歌舞練場での公演で美声を響かせた(京都市中京区の先斗町歌舞練場で)=川崎公太撮影

三味線音楽の中で、繊細さと豪壮さを併せ持つ長唄ながうたは、上方で生まれ、江戸に伝わって歌舞伎舞踊とともに発展した。弾き手「三味線かた」と唄い手「唄方」のコンビで演奏され、唄方の首席「立唄たてうた」として活躍する杵屋東成きねやとうせいは2年前、人間国宝に認定された。広い音域と微細に分け入る情感の表現は聴衆を魅了してやまない。(編集委員 坂成美保)

様々なジャンルを吸収、発展 

「長唄はミックスジュースみたいなもんですよ。オレンジもリンゴもブドウも、色んな種類が混ざり合っておいしくなる」

謡曲、地歌、民謡、浄瑠璃など、その時代に流行したジャンルを吸収しながら、独自の曲節を発展させた歴史を「ミックスジュース」に例えた。

「幼い頃から家でも四六時中、長唄ことを考えていなければなりませんでした。修業はつらかったけど、弟と2人だったから、頑張れたのでしょうね」と語る

長唄は幕末に歌舞伎専属の音楽として隆盛を迎え、明治以降は、独立した邦楽の演奏団体が組織されて演奏会も盛んになった。東成の所属流派「杵勝きねかつ会」も江戸・嘉永年間の発祥だ。

歌舞伎舞踊には、能から移入された演目も多い。代表曲「京鹿子娘道成寺きょうがのこむすめどうじょうじ」は能「道成寺」を下敷きに、長唄、「四拍子しびょうし」と呼ばれる囃子はやしの合奏で構成される。

〽花のほかには松ばかり――。能の影響が色濃い「うたいがかり」と呼ばれる唄で始まる。長唄と能は、同じ詞章でも表現は異なる。

「能のような唄であって能ではない。発声法も違うんです。長唄は母音よりも子音に神経を使ってはっきり発音します。言葉を客席に届けるためです」。幼い頃から、発声をたたき込まれた東成ならではの解釈だ。

幼い頃の家族写真。(左から)父・初代杵屋勝禄、東成、姉、弟・二代目勝禄、母(1951年頃)

長唄三味線方の初代杵屋勝禄かつろくを父に持つ。双子の弟・二代目勝禄とともに3歳で初舞台を踏んだ。小学生の頃から週5日は稽古。弾き語りの名手だった父は、唄と三味線の両方を指導した。

旧大阪松坂屋ホールでの初舞台では兄弟そろって出演した(東成は右、1953年)
幼い頃は兄弟で日本舞踊の稽古にも通った(東成は左、1960年頃)

「24時間、長唄漬けでないと父の機嫌が悪くなる。小学校の授業が終わり、大阪・心斎橋の自宅に近づいてきて、三味線の音色が聞こえてくると、胃が痛くなりました」。変声期を経て、10歳代半ばで東成は唄を選び、弟は三味線に進んだ。西洋音楽の基礎を学ぶため、中学・高校時代はピアノと声楽レッスンにも通った。

「音域が狭く、高音は苦手。声量もないし、間も悪い。とにかくダメで唄を楽しいと思ったことないんですよ」。苦笑いを浮かべる。

「黒塚」で共演した市川猿翁(左)とのツーショット

突破口を見いだしたのは1970年、京都・南座で市川猿翁えんおう(当時・三代目猿之助)と共演した「黒塚」だった。先輩の立唄から連日ダメ出しが飛び、試行錯誤に苦しんだが、千秋楽には、出なかった声も出せるようになっていた。

「複数の唄方、三味線が一糸乱れずにぴたりと息を合わせる。役者の振りに合わせ、邪魔をしないよう心を配ることが何より大事だと気づかされました」

三味線方の弟・勝禄(右)とはコンビで出演する機会も多い

老い 芸の力でカバーを

「東成」は杵勝会の創始者・二代目杵屋勝三郎の俳号で、生前、杵勝会七代目家元から与えられた名跡。その名で人間国宝に認定された喜びはひとしおだった。74歳の今、自らの老いと向き合う日々だ。

「年齢とともに声は衰える。張りがなくなり、高音域が出にくい。迫ってくる老いを、芸の力でいかにカバーできるか。今まさに研究中で、毎日が闘いです」

きねや・とうせい 1949年、大阪市生まれ。双子の弟・二代目勝禄とともに父・初代勝禄に師事。53年に初舞台。2019年に松尾芸能賞優秀賞受賞。22年に人間国宝。

(2024年3月27日付 読売新聞夕刊より)

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