三味線音楽の中で、繊細さと豪壮さを併せ持つ長唄は、上方で生まれ、江戸に伝わって歌舞伎舞踊とともに発展した。弾き手「三味線方」と唄い手「唄方」のコンビで演奏され、唄方の首席「立唄」として活躍する杵屋東成は2年前、人間国宝に認定された。広い音域と微細に分け入る情感の表現は聴衆を魅了してやまない。(編集委員 坂成美保)
「長唄はミックスジュースみたいなもんですよ。オレンジもリンゴもブドウも、色んな種類が混ざり合っておいしくなる」
謡曲、地歌、民謡、浄瑠璃など、その時代に流行したジャンルを吸収しながら、独自の曲節を発展させた歴史を「ミックスジュース」に例えた。
長唄は幕末に歌舞伎専属の音楽として隆盛を迎え、明治以降は、独立した邦楽の演奏団体が組織されて演奏会も盛んになった。東成の所属流派「杵勝会」も江戸・嘉永年間の発祥だ。
歌舞伎舞踊には、能から移入された演目も多い。代表曲「京鹿子娘道成寺」は能「道成寺」を下敷きに、長唄、「四拍子」と呼ばれる囃子の合奏で構成される。
〽花の外には松ばかり――。能の影響が色濃い「謡がかり」と呼ばれる唄で始まる。長唄と能は、同じ詞章でも表現は異なる。
「能のような唄であって能ではない。発声法も違うんです。長唄は母音よりも子音に神経を使ってはっきり発音します。言葉を客席に届けるためです」。幼い頃から、発声をたたき込まれた東成ならではの解釈だ。
長唄三味線方の初代杵屋勝禄を父に持つ。双子の弟・二代目勝禄とともに3歳で初舞台を踏んだ。小学生の頃から週5日は稽古。弾き語りの名手だった父は、唄と三味線の両方を指導した。
「24時間、長唄漬けでないと父の機嫌が悪くなる。小学校の授業が終わり、大阪・心斎橋の自宅に近づいてきて、三味線の音色が聞こえてくると、胃が痛くなりました」。変声期を経て、10歳代半ばで東成は唄を選び、弟は三味線に進んだ。西洋音楽の基礎を学ぶため、中学・高校時代はピアノと声楽レッスンにも通った。
「音域が狭く、高音は苦手。声量もないし、間も悪い。とにかくダメで唄を楽しいと思ったことないんですよ」。苦笑いを浮かべる。
突破口を見いだしたのは1970年、京都・南座で市川猿翁(当時・三代目猿之助)と共演した「黒塚」だった。先輩の立唄から連日ダメ出しが飛び、試行錯誤に苦しんだが、千秋楽には、出なかった声も出せるようになっていた。
「複数の唄方、三味線が一糸乱れずにぴたりと息を合わせる。役者の振りに合わせ、邪魔をしないよう心を配ることが何より大事だと気づかされました」
「東成」は杵勝会の創始者・二代目杵屋勝三郎の俳号で、生前、杵勝会七代目家元から与えられた名跡。その名で人間国宝に認定された喜びはひとしおだった。74歳の今、自らの老いと向き合う日々だ。
「年齢とともに声は衰える。張りがなくなり、高音域が出にくい。迫ってくる老いを、芸の力でいかにカバーできるか。今まさに研究中で、毎日が闘いです」
◇ きねや・とうせい 1949年、大阪市生まれ。双子の弟・二代目勝禄とともに父・初代勝禄に師事。53年に初舞台。2019年に松尾芸能賞優秀賞受賞。22年に人間国宝。
(2024年3月27日付 読売新聞夕刊より)
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