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2021.10.1

【新派・女優と女形3】女優は『実』、女形は『虚』―はっきり違う芝居の特徴

女優と女形の芝居にはどんな違いがあるのか。それは、せりふ回しや仕草にどんなふうに現れるのか。女優、女形向きの作品というのが、それぞれあるのか。シリーズの3回目は「女優と女形の表現」について。女優の波乃久里子さん、女形の河合雪之丞さんに、じっくり語り合ってもらった。(聞き手=読売新聞事業局専門委員・田中聡)

女優と女形の芝居の違いについて話し合う久里子さん(右)と雪之丞さん=青山謙太郎撮影

――「女優と女形」、3回目のテーマは「表現方法の違い」です。2回目までに伺ったことをまとめると、女優の演技は「リアリズム」が基本、女形は「デフォルメ」に重点が置かれている。そういうふうに捉えてもいいのかな、と思いますが。

久里子 そうですね。女優の芝居は簡単に言えば「ウソをつかない」。もちろん芝居だから、どこかで「ウソ」はあるんですけど、いかに「ウソをついていない」ように見せるかが重要なんですね。それに対して、女形さんは見ている人たちも「あれは男性が演じているんだ」と分かっているから、「そこにウソがあるのは当たり前」と思ってもらえる。だからいくらでも芝居の中で「ウソ」がつける。

雪之丞 それは、そう思いますね。

久里子 まあ、だから一見女形さんは「派手」で、女優は「地味」とも見えてしまうかもしれません。派手にするには、どこかで「ウソ」をつかなければいけないし、「ウソ」を作り上げるにはエネルギーがいる。女優はリアリズムの芝居なので、そういうエネルギーを出そうとすると、芝居がうるさくなってしまう気がします。(初代水谷)八重子先生は、そういうことを避けていらっしゃいましたね。

――今年4月におふたりで開かれた「鶴兎会」の公演では、泉鏡花の名作『滝の白糸』を題材にして、女優と女形の芝居の違いを説明していらっしゃいました。あれがとても分かりやすくて面白かったです。「金沢福助座楽屋」の場のおしまいあたり。出刃打ちの芸人・南京寅吉が弟子の撫子をせっかんしているところに水芸の芸人の白糸が来て、言い争いになる。

『滝の白糸』河合雪之丞(当時・市川春猿)©松竹

白糸 南京さん、白というのも色のうち。覚えておいておくんなさいよ。
寅吉 覚えとけと?
白糸 滝の白糸に朝日が射しゃ、金で光ってまばゆいだけさ。目がつぶれないように用心おし。
寅吉 何を。

久里子 スカッとするでしょ、女形さんでやっていただくと。派手で抑揚があって。女優さんの場合、こういうやり方は無理なんじゃないかと私は思いますね。例えば、八重子先生は「眩いだけさ」というところは、静かに諭すようにいいますし、「用心おし」も声を低くしてリアルにいうだけ。女形さんのように迫力があるせりふ回しはしないし、スペクタクルな感じにもならない。

――最後のせりふのところの形の決め方も違いますね。

久里子 「用心おし」「何を」のところでチョンと柝が入るんです。そこで、白糸が髪から平打ちというかんざしを抜いて、形を決めて、そこで柝がチョンチョンチョンチョンってなる、というのを花柳先生はやってらっしゃった。八重子先生の場合は、平打ちは抜きますけどね、スッと抜いてサッと楽屋に入っていく。形を決めて、というのをしないんです。

雪之丞 女優さんの場合はここで幕にならずに、もうひと芝居あるんですよね。

久里子 お客さまからしてみると、女形さんのやり方のほうが面白いんじゃないでしょうか。「小股が切れ上がった」ように見える。私もワクワクしながら拝見していました。公演中毎日花柳先生の舞台を。それで目に焼き付いていたものを「やってくださらない」って雪之丞さんにお願いしたんですよ。

――花柳先生の映像は残ってないんですか。

雪之丞 白糸が水芸をするところしかないですね。

――水芸はなかなか稽古もできないでしょうから、大変でしょうね。久里子さんはこのお芝居、どなたに教えていただいたんですか。

久里子 花柳先生は舞台袖で拝見していただけですから。教わったのは雀右衛門のお兄さん(四世中村雀右衛門)からです。花柳先生に事細かく教えていただいたことを台本に書いていらっしゃってね。マッチの擦り方まで丁寧に絵入りで記していらっしゃって、全部私に移してくださった。だけどお兄さんは女形ですから、「女優でどうするかは(自分で)考えなさい」っておっしゃられた。

雪之丞 大成駒(六世中村歌右衛門)もおやりになってますね。

久里子 歌右衛門のおじちゃまの白糸もよかったですね。……このお芝居、さっきの場面のようなところは女形の方が華やかでいいんだと思うんですが、最後の方の法廷の場面は、女優がやった方がいいと私は思っているんですよ。

――ここは女優向き、ここは女形向き、というところが明確にあるんですね。

久里子 お芝居には「虚」と「実」がありますけど、「実」の芝居は女形より女優。「虚」の芝居では女形さんにかなわない。女優だって、形を決めて派手に、というのもできなくはないんですよ。でも、それは昔、男性がやる歌舞伎のやり方をなぞって芝居を演じていた「女役者」みたいなもの。私はそういうのは、好きではないですね。

『婦系図』 波乃久里子 ©松竹

――冒頭でもおっしゃった「リアリズム」と「デフォルメ」の違いですか。

久里子 そうですね。だから、同じ泉鏡花先生の作品でも『天守物語』のような「虚」の芝居は女形向き。リアルな『婦系図』は女優向き。『滝の白糸』には、さっきもお話ししたように女優向きの場面と女形向きの場面があります。

――同じ鏡花作品でも内容によってそういう違いが出てくるんですね。

久里子 そういえば――。昔、東京・三宅坂の国立劇場ができるちょっと前、私いつも、(八重子)先生と一緒の車で家に帰ってたんですよ。ちょうど東京・半蔵門のあのあたりを通るとき、「ここに女優も出られる、お国の劇場ができるのよ」って毎回おっしゃって、劇場ができるのを楽しみにしていらっしゃった。でも実際に国立劇場ができたら、「なかなか女優は出られない」状況になってしまいました。

――古典の演目しかやらないってことですか。

久里子 「歌舞伎を中心に上演する」という方針になったらしいのです。先生はそれをとても悔しがってらして。鏡台の前で「今に見てらっしゃい」っておっしゃって。……それから5年ぐらい後、先生に「御出演なさいませんか」という話が来ました。その前に一度、国立劇場が舞台を杉村(春子)先生に貸していた時があって、その時に八重子先生が「久里ちゃん、一緒に国立劇場の監事室に行って、お芝居を見ない」っておっしゃったんですよ。そこに行ったら、たまたま小川昇さんがいらっしゃった。

――ベテランの照明家の方ですね。

久里子 はい。先生が「あら、ボルさん来たの、座って」って言って、「ボルさん、あそこから照明当てて」とか「セリはあげて」とか言い始めたんです。……芝居なんか見てないのね。自分がここで『滝の白糸』をかけた時、どういう舞台機構が使えるかを見に来てて、それを小川さんに説明していたんですね。すごい執念だな、と思いました。

 ――それで、その後、国立劇場で『滝の白糸』をおやりになったんですか

久里子 そうなんです。相手役の欣弥が(当代中村)吉右衛門のお兄さんでしたね。当時、お兄さんは20代後半、先生は70歳を過ぎてましたから。これもまた、すごいでしょう。『滝の白糸』というと、そんな思い出もありますね。

(4回目に続く)

対談の様子を動画でも!

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◆十月新派特別公演のホームページはこちら →  https://www.shochiku.co.jp/play/schedules/detail/2110_enbujyo/

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