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2024.4.22

十一代目豊竹若太夫 襲名披露 ― 大名跡「80歳からも進化」

「和田合戦女舞鶴」を語る十一代目豊竹若太夫(左)。かみしも萌黄もえぎ色は登場人物・市若の衣装に合わせた(右は三味線の鶴沢清介)=枡田直也撮影

文楽界の大名跡「豊竹若太夫」が57年ぶりに復活した。クライマックスを担う「切場きりば語り」の豊竹呂太夫ろだゆうが〔2024年4月〕6日、祖父・十代目若太夫の名を継ぎ、十一代目を襲名した。「若太夫」は文楽史上、特別な存在である。

十一代目の祖父・十代目若太夫

〈十代目若太夫〉

1888~1967年。徳島県生まれ。50年に若太夫襲名、62年人間国宝。理知的、心理的な表現が主流になる中、古風で豪快な芸風を貫いた。豊かな声量を生かし、全身全霊でぶつかる「命懸けの浄瑠璃」と評された。「逆櫓さかろ」「寺子屋」「志渡寺しどうじ」など時代物が得意だったが「酒屋」などの世話物でも名演を残した。

江戸中期の初代(1681~1764年)は、文楽の語り「義太夫節」の創始者・竹本義太夫の門人。美声で知られ、「豊竹座」の劇場主、興行主としても名をはせた。義太夫が旗揚げした「竹本座」と競い合って黄金期「竹豊ちくほう時代」を築いた。

初代若太夫の肖像画(国立文楽劇場蔵「此君帖」より) 

義太夫節の根幹をなす芸風を「ふう」といい、竹本座は重厚で渋い「西風」、豊竹座は華やかで技巧的な「東風」で知られる。東西の名称は道頓堀の両座の位置関係に由来する。

東西二つの「風」の確立は、義太夫節の曲節の違いを生み、両輪としてその発展を支えた。現在、国立文楽劇場の舞台両袖に掛かる小幕には、両座の座紋が染め抜かれている。襲名によって十一代目がまとうのも豊竹座の座紋だ。

襲名披露初日、スーツ姿でさっそうと楽屋入りする十一代目
楽屋の出入りを示す着到板で、新しい「若太夫」の名札を手に取る

十一代目は、若き日に大江健三郎に憧れて小説家を目指した芸術家肌。1967年、祖父の死去を契機に一大決心をして20歳で文楽界に飛び込む。入門した竹本春子太夫の急死に伴い、竹本越路太夫の門下に移り、質実でリアルな芸風を徹底的にたたき込まれた。

40歳代でC型肝炎の大病に見舞われる。病と向き合い、祈りに救われた経験から、聖書の世界を文楽で描いた「ゴスペル・イン・文楽」にも取り組んできた。

2017年に祖父の前名・豊竹呂太夫を襲名。その頃から、理知的な越路とは対極にある古風で豪快な祖父の芸を意識するようになった。録音テープを聴き、祖父の発声、表現にアプローチしていった。

襲名披露口上では、三味線の竹沢団七らが十一代目若太夫の人柄を紹介した
若太夫ゆかりの演目「和田合戦女舞鶴」を語る。祖父も得意だった高音の「矢声」が客席に響いた。

襲名披露演目「和田合戦女舞鶴」は、初代が初演した時代物で、祖父が十代目襲名で語った作品。現代では荒唐無稽ともいえる忠義の物語を観客に伝えるため枯淡の深みの中に、我が子を犠牲にする母の慟哭どうこくの激しさも交え、越路と祖父、対極的な芸風の統合を試みた。

「和田合戦女舞鶴」の一場面

公演中に喜寿(77歳)を迎える十一代目は「今はラストスパート。自分にむちを入れて、80歳からでも進化する」との覚悟で挑む。文楽の支柱となってきた大名跡のこれからが楽しみだ。(編集委員 坂成美保)

十一代目豊竹若太夫襲名披露「4月文楽公演」
29日まで、国立文楽劇場。第1部は「絵本太功記」。第2部は「団子売」「口上」「和田合戦女舞鶴」(襲名披露狂言)「釣女つりおんな」。第3部は「御所桜堀川夜討ようち」「増補大江山」。17日は休演。(電)0570・07・9900。

(2024年4月10日付 読売新聞夕刊より)

5月は東京公演

5月9日から27日まで(15日は休演)、東京・北千住の「シアター1010(せんじゅ)」で行われる「令和6年5月文楽公演」でも、毎日、「豊竹呂太夫改め十一代目豊竹若太夫襲名披露口上」が予定されています。上演日程や演目などは特設サイトでご確認ください。→ https://www.ntj.jac.go.jp/kokuritsu/2024/bunraku_45.html

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