板布海苔 を煮出して作る「ふのり」は古くから織物、漆喰 、筆、陶器などの天然糊剤 として使われてきた。国宝・重要文化財の絵画などの修理では、主に絵画の表面を保護する「表打ち」と呼ばれる重要な工程で使われている。だが、板布海苔の製造業者は高齢化や後継者不足により激減した。文化財の修理に用いる板布海苔を製造する会社は現在1社のみとなっている。海藻から板布海苔を作るまでの工程をはじめ、表打ち作業、筆や印染 など伝統工芸品の製造現場を紹介する。
東京文化財研究所保存科学研究センター 早川典子・副センター長
板布海苔から作った糊・ふのりが持つ性質について、国立文化財機構東京文化財研究所保存科学研究センターの早川典子・副センター長に科学的な観点を加えて語ってもらった。
文化財の保存・修理に使われてきた材料について研究を続けている。ふのりは約20年研究を続けるなかで、工業製品ではとても代用できない、得がたい性質を持っていることが明らかになっている。
ふのりの歴史は古く、奈良時代の正倉院文書に名前が登場する。用途については平安時代の辞書「
染織品の糊付けや洗い張りをはじめ、漆喰塗りの際に混ぜる
このような用途が可能なのは、ふのりの主成分であるフノランを構成する2種類の化学成分にあると考えている。一つは寒天の化学構造にかなり似たアガロイド鎖。寒天は温度を下げていくとぷるぷるに固まる性質があるが、ふのりは化学構造の違いによって、そのようには固まらない。
もう一つはミルクゼリーなどを固めている成分、カラギーナン鎖で、この二つの成分が微妙なバランスをとっている。その結果、水に溶けやすい、粘度がある、カルシウムに触れるときゅっと固まる――など多機能なはたらきを有している。
こうした性質を持つ材料は、今後10年を経過しても合成されることはないと考えている。文化財の修理を安定的に続けていくために、これからもふのり(板布海苔)の生産をぜひ続けてほしいと願っている。
国宝修理装潢師連盟・山本記子理事長
板布海苔から抽出して作る糊・ふのりが文化財修理のどんな場面に使われるのか、選定保存技術保存団体「国宝修理
絵画、書跡などの文化財は、紙や絹といった
これらの多くは、オリジナルである本紙が
絹地に描かれた「絹本絵画」の場合、経年で劣化したオリジナルの絵画は既に単体では安全に扱えないほどに傷んでいるため、修理処置を行う間は絵画表面に薄い紙を2~3層と貼り付けて本紙を保護する「表打ち」の作業が欠かせない。
その表打ちに必要なのがふのりだ。ふのりは乾燥時には固着し、水を与えると溶ける性質がある。表打ちされた絵画は、裏面に貼り付けた古い裏打紙を除去し、新しい裏打紙に取り換えることで安定する。その後に水でふのりを除去し薄い紙を剥がす。ふのりにより可能となる技術だ。
また、ふのりは
ふのりが文化財の修理現場で活躍していることを、将来を担う子どもたちにも伝えたい。文化財修理に使うふのりを製造している会社は1社だけになってしまった。これからも良質なふのりを作り続けてほしい。
板布海苔とは
海藻のマフノリ、フクロフノリなどを原料とし、水洗い、塩抜きし、天日乾燥で漂白した製品。煮ることで、
糊 としてすぐ使用できるようにしているのが特長だ。ノリ、フクロフノリは北海道、青森、三重、愛媛、長崎などが主な産地。潮の干満により干上がったり海の中になったりする潮間帯の岩場で、春から夏にかけて成長する。機械や道具は使わずに手摘みする。養殖は難しく、採取量は年々減少している。
このうち採取量が少なく希少価値があるマフノリは糊の成分が最も強いと言われる。フクロフノリはそばの「つなぎ」やみそ汁の具材、海藻サラダなどの食用として一般的に使用されている。
(2025年9月7日付 読売新聞朝刊より)
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