明治天皇の子供たちのうち、成人に達した男子は皇太子(後の大正天皇)1人であったが、内親王のうち4人は健やかに成長し、明治40年代から大正初めにかけて、それぞれ降嫁された。今回は、この皇女方のボンボニエールをめぐる物語をひもとこう。
成人された皇女4人のうち常宮昌子内親王は明治21年(1888年)に生まれ、明治天皇の第6皇女にあたる。第7皇女の周宮房子内親王は明治23年(1890年)に生まれた。2人の生母は園祥子である。
当時の皇室のならいで2人の皇女は、明治24年(1891年)より天皇・皇后の元を離れ、高輪御殿にて養育された。高輪御殿とは、港区高輪にある旧高松宮邸で、上皇ご夫妻が間もなく転居される予定の場所である。 4人の皇女の養育は侯爵佐々木高行、下田歌子などが命じられた。その後、明治24年(1891年)に生まれた富美宮允子内親王、明治29年(1896年)生まれの泰宮聡子内親王も母は園祥子であった。この皇女2人は伯爵・林友幸によって育てられた。
明治天皇の子供たちの多くが幼くして病死している中、皇女方の健やかな成長は天皇の心を和ませ、内親王に贈る着物の色柄まで自ら指示したという。
年頃となった4人の内親王は明治40年代から大正初年にかけて結婚された。
常宮昌子内親王は明治41年(1908年)に竹田宮恒久王と結婚。竹田宮は明治39年(1906年)に新たに創設された宮家である。婚儀にあたっては、パリやロンドンにて装飾品や洋食器が買いそろえられたことが記録に残る。国内産業の隆盛に心を砕いた明治天皇・皇后も娘には甘かったようで、輸入品で嫁入り道具を買いそろえているのである。翌明治42年(1909年)には、第7皇女房子内親王と北白川宮成久王、さらに翌年には、第8皇女の允子内親王と朝香宮鳩彦王との婚儀が続くが、昌子内親王の嫁入りの道具立ては、その後の皇女方の結婚にも踏襲された。
そして、それぞれの婚儀の際にはやはりボンボニエールが制作された。皇女方のボンボニエールは、大きさ5センチほどの「柳筥」「文庫」「重箱」という伝統的な「箱」を模したものであった。
昌子内親王のボンボニエールは柳筥形。柳筥とは、神へ供え物を捧げる際に使用されるもので、柳を細い三角形に割り並べ、麻糸で綴じた蓋付きの精巧な容器である。正倉院宝物にも十数点が残り、現在でも、伊勢神宮では真珠などの宝物を収納する箱として使われている。それをボンボニエールでは、純銀の板と銀糸で再現し、さらに蓋表に菊の御紋を配し、赤色の絹の打紐が付けられた。この銀糸の繊細さは筆舌に尽くしがたい。ぜひ、画面を拡大してご覧いただきたいと思う。
房子内親王のボンボニエールは文庫形。文庫とは手紙や日記などを納める箱のことである。しかし、次第に日記や本を収納する大きな文庫(例えば金沢文庫、紅葉山文庫など)を指すようになり、さらにはその文庫に入っている本全体のコレクションを、そしてさらには、そのコレクション全体をまとめて購入することを可能にした安価な出版物群(岩波文庫や新潮文庫など)を指すようになった。現在「文庫」と言えばこのような本を思い浮かべる方がほとんどだろう。話が少しそれたが、房子内親王のボンボニエールは由緒正しい文庫形であった。
允子内親王のボンボニエールは重箱形。重箱は現在でも正月のおせち料理を入れる容器として使われているので、皆さまにもなじみ深いもの。段を重ねることから「めでたさを重ねる」に通じ、吉祥であるとされる。この重箱は、皇室からの下賜品として多用され、比較的多く現存する。実際に天皇家を表す菊御紋が金の高蒔絵で描かれた黒漆塗りの重箱が「ヤフオク!」などで取引されているようである。しかし、この重箱の多くは、厳密な意味での下賜品ではない。実は、天皇家が下賜してくださったのは、重箱の中身、料理や菓子の方なのであった。
そう考えると、ボンボニエールも中身のお菓子が主役であり、ボンボニエール自体は「おまけ」であったのかもしれない。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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