前回は天皇、皇后両陛下のご結婚についての物語であったが、今回は皇嗣殿下と紀子さまの物語。
皇嗣殿下は昭和40年(1965年)11月30日、当時の皇太子・明仁親王(上皇さま)と美智子さまの第2子として誕生された。称号の「礼宮」は「論語」に由来する。お印は栂である。
浩宮さま(天皇陛下)と礼宮さまは6歳違いの兄弟。お二人の教育に関して、父である上皇さまは
「いずれは差がつくかもしれないが、分け隔てなく、兄弟をなるべく一緒に同じように育てていきたい。しかし兄は将来、窮屈な立場になるので今のうちに自由に、弟は将来、兄より自由になるのでしつけに厳しく、窮屈に育てたい。大きくなったことを考えると、これでバランスがとれると思う」
との教育方針を語られていたが、そこは次男の常か、礼宮さまはわんぱくであったらしい。
礼宮さまは、 4 歳で学習院幼稚園に入園された。当時一世を風靡した「タイガーマスクごっこ」が学習院でも流行していた。礼宮さまは技を繰り出し、お友だちを泣かせて、美智子さまが直々に謝罪の電話をされたこともあるという。
そんな礼宮さまもすくすくと成長され、学習院初等科、中・高等科、そして、大学の法学部政治学科に進まれた。幼い頃から動物がお好きだったことから「自然文化研究会」というサークルを自ら発足させて活動され、「友人とよく飲み歩き、カラオケでものまねを披露されることもありました」と当時の様子が語られるように、学生生活を謳歌されていた。
その頃、礼宮さまは学内の書店で紹介された、川嶋辰彦・学習院大教授(現・名誉教授) のお嬢さまを「自然文化研究会」に誘い、一緒に活動をされていた。そのお嬢さまが紀子さまである。
学習院大在学中の昭和60年(1985年)11月30日に20歳になられた礼宮さまは、成年式をあげられた。その際のボンボニエールは丸形で、礼宮さまのお印・栂がデザインされている。
紀子さまは、昭和41年(1966年)9月11日に誕生された。川嶋教授の仕事の関係で、アメリカ、オーストリアで幼少期を過ごし、その後、学習院大文学部心理学科に入学された。在学中に礼宮さまと出会われたことは前述の通りである。
その楽しい学生時代のある日、お二人で目白駅(東京都豊島区)前の交差点で信号待ちをしていた際に、礼宮さまが紀子さまに、私と一緒になってくれませんか、とプロポーズされたという。突然のプロポーズに驚いた紀子さまは、よく考えさせていただけませんか、と返答されたが、後に結婚を承諾され、平成元年(1989年)9月に婚約が内定した。
この婚約は世間を驚かせた。何しろ、すべての皇族の中で、自分で結婚相手を見つけて、直接プロポーズをした男性は、礼宮さまだけだったのである。また、当時、紀子さま一家は3LDKで家賃3万3000円という学習院の共同住宅に住んでいた。そのことから、紀子さまは「3LDKのプリンセス」と呼ばれた。結婚時には、大学院に進まれていたが、妃殿下が現役大学院生というのも、皇室始まって以来、初めてのことであった。
平成2年(1990年)6月29日、お二人は結婚され、秋篠宮家が新たに創設された。紀子さまには、檜扇菖蒲のお印が作られた。
ご結婚を祝すボンボニエールは、その檜扇菖蒲と皇嗣殿下のお印・栂があしらわれている。
プロフィール
学習院大学史料館学芸員
長佐古美奈子
学習院大学文学部史学科卒業。近代皇族・華族史、美術・文化史。特に美術工芸品を歴史的に読み解くことを専門とする。展覧会の企画・開催多数。「宮廷の雅」展、「有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展、「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」展など。著作は、単著「ボンボニエールと近代皇室文化」(えにし書房、2015年)、共著「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美―」(青幻舎、2018年)、編著「写真集 明治の記憶」「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」「華族画報」(いずれも吉川弘文館)、「絵葉書で読み解く大正時代」(彩流社)など。
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