2021.7.7

【京の国宝 知られざる物語 vol.1】家宝継承、1000年の闘い~冷泉家を訪ねて

京都ゆかりの国宝、皇室の至宝の数々を出品する特別展「みやこの国宝―守り伝える日本のたから―」が、7月24日から京都国立博物館で始まります。

「明月記」を伝えた冷泉れいぜい家、「御堂みどう関白記」を守った近衛家、そして多くの寺社が、相次ぐ戦火、天災など歴史の波をくぐり抜け貴重な文化財を守り伝えてきました。京都人の歴史を伝える矜持きょうじとその意識を育んだ京都の地を紹介します。

冷泉家25代当主 冷泉為人さん 貴実子さん 

御所側から望む「冷泉家」(京都市上京区で)=河村道浩撮影

京都は王朝文化を伝える「器」だ。応仁の乱で焼け野原となり、江戸時代にも繰り返し大火に襲われたが、土蔵の中の古典籍は生き延びた。

明治維新後、天皇とその近臣は東京に去ったが和歌の家、冷泉れいぜい家は京都に残った。摂関家の近衛家は新たに京都に蔵を建て、寺社もゆかりの宝物を守り続けている。

「蔵は神殿。バチが当たるという気持ちが文化財を守る」
冷泉家当主の為人さんと夫人の貴実子さん(京都市上京区の冷泉家御文庫前で)

幕末維新期の公家の数は140家余りといわれる。多くは明治天皇に従って東京に去り、京都の元の場所に今も屋敷を維持しているのは冷泉家だけ。京都市上京区の重要文化財、冷泉家住宅に25代当主の為人ためひとさん(77)と妻の貴実子さん(73)を訪ねた。

先代、為任ためとう氏の長女として生まれた貴実子さんは子どもの頃、御文庫おぶんこと呼ばれる土蔵のそばで遊んでいて叱られたことがある。「神様のいるところに近づいたらバチがあたる」と。

御文庫には先祖の藤原俊成、定家以来の典籍が収められている。

「蔵自体が神殿なんです。毎年元旦には蔵の2階にある俊成卿と定家卿、歴代の御影(肖像画)にお参りする」と貴実子さん。「バチが当たるという気持ちがあるから文化財は守られる。神社仏閣は各地に残っているけれど、信仰の対象ではないお城はいっぱい壊されたでしょう」

■ 危機
冷泉家当主の為人さんと夫人の貴実子さん

京都は地震や火事、水害、戦火に繰り返し見舞われた。天明の大火(1788年)では冷泉家の屋敷も焼けたが、御文庫と中の典籍は無事だった。

最大の危機は終戦直後。農地改革で田畑を失い、伯爵だった冷泉家は華族制度の廃止で華族下賜金を受けられなくなった。さらに「母が怒っていたのが財産税。土足で上がり込んだ徴税官に、ここは広すぎる。つぶしてアパートを建てたら何家族も住めるやないかと言われて」

屏風びょうぶなどの調度品を売ってしのいだが、団体職員だった為任氏の定年退職を前に相続税を試算すると、「バブル期で、土地の値段がすごいことになっていて、とても払えない額。売らんとしょうがないと家族で嘆いていた」

それを聞いた京都府の申し入れで学術調査が行われ、国宝級の文化財が何点もあると報道された。文化庁が動き、企業などからの寄付を基に財団法人「冷泉家時雨亭文庫」を設立し、相続問題は解決した。

■ 蔵番

このころ、近世絵画史の学者、為人さんは友人を介して貴実子さんと会った。

「公家のお姫さんと食事したら話のタネになる」という軽い気持ちだったが結局、婿入りして「冷泉家の蔵番」を担うことになった。

当主として歌会などで歌を作らないといけない。初めのうちは妻と義母のダブルチェックを受ける一方で、資金集めにも奔走した。住宅の解体修理に10億円、「明月記」の修理に2億2000万円かかった。

8棟ある土蔵のうち3棟は老朽化のためプレハブ倉庫に替えてしのいでいたが、3年前の台風で破損した。これを機に、伝統的な土蔵に戻そうと現在再建中で、費用はクラウドファンディングも使って集めている。

「身も蓋もないが、文化財を守るのはお金。それを畏れ敬う心がないとダメだけれど」と話し合う夫妻のがんばりは今後も続く。

■動乱の時代 越えて
狩衣かりぎぬに身を包み、和歌を詠み上げる冷泉家歌会始の出席者

藤原道長の六男、長家に始まる御子左みこひだり家と呼ばれる系統から歌人の藤原俊成、定家親子が出た。鎌倉時代、定家の孫の代に二条家、京極家、冷泉家の3家に分かれ、いずれも歌道師範家として重きをなした。二条、京極、冷泉はそれぞれ当時屋敷があった通りの名だ。

冷泉家の家祖、為相ためすけの母、阿仏尼は側室だったが、亡き夫の所領を息子に相続させるための訴訟で鎌倉に赴き、この時、紀行文「十六夜日記」を書いた。為相も長く鎌倉に暮らし、武家に歌を広めた。

嫡流の二条家は権力争いに巻き込まれ、和歌が巧みと評判だった京極家は政治に関わりすぎて、いずれも家が断絶した。残った冷泉家が藤原俊成の歌論書「古来こらい風躰抄ふうていしょう」や定家の日記「明月記」など、御子左家以来の貴重な遺産を引き継ぎ、動乱の時代を生き延びた。

戦国時代には地方へ避難し、駿河(現在の静岡県)の今川氏などを頼った。豊臣政権期には正親町天皇の勘気に触れて大坂に退去したが、徳川家康の取りなしで京都に戻り、現在の場所に屋敷を構えた。

秀吉が形成した公家町の屋敷のほとんどは明治時代に取り壊され、跡地は京都御苑となった。その外側に位置する冷泉家は旧地に残ることができた。

(2021年7月4日読売新聞より掲載)

「京の国宝」展覧会公式サイトはこちら

特別展「京(みやこ)の国宝―守り伝える日本のたから―」

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